虫の「羽」は正しい

最近、NHK のニュースで「昆虫 昔はもっと羽があった」というものがありました。

このブコメ*1に「昆虫の『はね』は『翅』と書くのが正しいんじゃないの?」と思っている人がいるようなので、また記事を書くことにしました。


例によって、実例から入ります。

虫について「羽(根)」が使われている例です。

螽蟖の記 室生犀星 (1965年)

きりぎりすは昼間もなくが、風が吹くとなく。風が吹くと羽根さばきがらくになり、気持よくなけるらしい。

黄金虫 エドガー・アラン・ポー 佐々木直次郎訳 (1951年)

あの虫はどこからどこまで、羽根だきゃあ別だが、外も中もすっかり、ほんとの黄金虫でさ。

クララ 林芙美子 (1947年)

羽根の生えた蟻のような蟲がぶうんと山吹の枝へ飛んで來て兩手でお祈りをしています。

番茶話 泉鏡太郎 (1942年)

むしは、うつくしいはねひろげず、


こうして見るとわかるように、「虫のはね=翅」なんていう等号関係は成り立ちません。

虫のはねに「羽(根)」を使うことが間違いだった時代なんてありません。

もちろん、当用・常用漢字も関係ありません*2


「羽」と「翅」の関係は、「目」と「眼」の関係のようなものです。

本来、中国語でも意味の違いがあるわけではなく、同じものを指す別の言い方というだけです。

ちなみに、現代中国語では虫のはねも鳥のはねも「翅膀」と言います。


「め」に「目」と「眼」の二つの書き方があるのは、前者が先に日本で定着したところで、中国で主に後者を使うようになったので、日本でも「眼」を使わないとかっこ悪いということになってしまったからですね。だから、単独では「眼」とも書くのですが、ひとかたまりで認識される慣用句や熟語では「目」が多くなります。

「は・はね」も同じことで、先に日本で定着したのは「羽」のほうです。だから「羽虫」や「羽蟻」という言い方があるわけです。それが、中国では主に「翅」を使うようになったので、日本でも「翅」を使わないとかっこ悪いと考える人が出てきます。そのときに、昆虫のはねについて「翅」を使う人が比較的多かったので、日本で「翅」と書くと昆虫のものを指す場合が多いですが、元々はそんな区別はありません。「金翅鳥(こんじちょう)」という言葉もあります。


ところで、学術用語としては、昆虫のはねについては「翅(し)」と呼ぶことになっています。

昆虫のはねと鳥のはねには関連がないので、便宜的に「翅(し)」という漢字を昆虫専用にするというのは理にかなっています。

でも、学術用語と日常用語というのは違います。

これを混同すると、「スイカ(メロン)は野菜」とかいう小学生のようなことになります。


鳥のはねも虫のはねも(さらにはコウモリのはねや飛行機のはねも)、機能や形に共通点があるから、日常用語ではすべて「はね」と呼ばれるわけです。

そして、「はね」というのは日本語ではずっと区別せずに「羽(根)」と書かれてきました。

もちろん、英語でもすべて "wing" ですし、上で書いたように中国語でもすべて「翅膀」です。


学術用語で書き分けたり、趣味で書き分けたりするのはいいのですが、これまで日本語でずっと使われてきた「虫の羽(根)」という書き方を「間違いだ」というようなことはやめてほしいなぁと思います。それは好きな果物の話で「メロン」と言ったら「メロンは野菜だよ」と言うようなものです。それに、上で挙げたような過去の日本文学の多くを否定することにもなります。


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*1:はてなブックマークのコメント

*2:当用漢字以降、表外の「翅」が使われにくくなったということはあるにせよ、当用漢字以前から、「虫の羽(根)」という書き方は一般にあったということです。