「許す」と「赦す」の件(みんな間違っている)

シャルリー・エブド」誌の翻訳の問題がホットなようです。

私から見ると、みんな三者三様に間違っています

(最初に書いておきますが、ここでは主に日本語表記について述べ、シャルリー・エブド誌の表紙という本題にはあまり触れません)

関口涼子氏の間違い

まず、関口涼子氏の間違いから。

Tout est pardonnéを、「すべては許される」とすることで、この読みの多様性が全て消えてしまう。


もうすでにあちこちで指摘されていますが、「許す」は「赦す」を含んでいます。

現代日本語で「許す」と「赦す」が排他的に使い分けられているなんていうことはありません。


で、こういうときには必ず、常用漢字(当用漢字)云々という人が出てきますが、それも誤解です。

そういう人の頭の中では、戦前の日本語は失われたエル・ドラド的なもので、その世界ではすべての書き分けが正しく(「正しく」とは?)行われていたというイメージなのかもしれませんが、全くそんなことはありません。


「ゆるす」に関して言うと、「許す」は昔から "pardonner(pardon)" の意味でも "permettre*1(permit)" の意味でも使われてきています。*2

本を読んでいれば当然わかることですが、そうでなくてもちょっと調べればわかることです。


例えば、菊池寛の訳した「后デルヴオルギラ(オーガスタ・グレゴリー)」に次のような部分があります。


文藝春秋


もし書き分けが昔からされていたとしたら、ここは「赦す」を使っているはずのところです。

じゃあなぜ「許す」が使われているか。

単純に、明確な使い分けがなかったからです。


青空文庫で検索してみれば、このような用法はいくらでも見つかります。

もし私が亡友に対すると同じような善良な心で、妻の前に懺悔ざんげの言葉を並べたなら、妻はうれし涙をこぼしても私の罪を許してくれたに違いないのです。

こころ(夏目漱石)

龍王、聖龍王。わたしの罪を許しわたくしの呪をお解きください。

龍と詩人(宮澤賢治)

ああ、許し給へ。どんなまづしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがつてゐるものだ。

道化の華(太宰治)

「それを半分だけ上げますから早く私を許して下さい」

ツクツク法師(夢野久作)


関口涼子という人がどれほどのものかは知りませんが、これらは全部間違っているとでも言うのか、それともこれらは全部 permettre の意味だとでも言うのでしょうか。


それに、彼女自身が「許す」を pardonner の意味で使っているんですよね。

長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。


これは permettre では意味が通りません。

自分から、「許す」を(日本語の伝統に基づいて、正しく)pardonner の意味で使っているということです。

語るに落ちるではないですが、「書くに落ちる」とでもいうところでしょうか。


念のために付け加えると、「ゆるす」はほかの和語同様に昔から多様な表記があり、その中にはもちろん「赦す」も含まれていて、あえてその字を使う場合には「罪をゆるす」という意味で使われているというのは確かです。

しかし、「許す」との明確な使い分けが成立していた時代なんていうものはありません。

それは現代でも同じです。

「許す」が pardonner の意味で使われているから、「絶許(絶対に許さない)」のようなものがあるわけです。

(それとも、これも「絶赦」と書けとでも言うのでしょうか)


こういうわけで、関口氏が "Tout est pardonné" の訳にあえて「赦す」を使うのは自由ですが、「すべては許される」と訳したのを誤訳だというなら、それは間違いです。

しかし、じゃあ読売新聞には何の問題もないのかというと、それはまったく別の問題です。

読売新聞の間違い

"Tout est pardonné" を解釈するには、訳文ではなく原文のニュアンスを取る必要があります。

翻訳では、原文のニュアンスがどうやっても失われるものです。

原語がわからない人が、「すべては許される」という訳文から勝手に意味を取ってはいけません。

訳文にどの漢字を使ったら OK という問題ではありません。


いい例はないかと探してみたら、次のようなものがありました。

"Qui a éteint le soleil ?"


この絵本のタイトルは "Qui a éteint le soleil ?" ですが、これは直訳すると「誰が太陽を消したのか?」となります。

しかし、この「誰が太陽を消したのか?」という訳文から、「著者は太陽が消滅した世界を描くことで…」のようなことを書いてしまうと、とんでもない見当違いになってしまいます。

というのは、"éteindre" は「火・電灯などを消す」という意味であって、「消滅させる」ではないからです。

この場合、日本語ではどう頑張っても「消す」としか書けないので、原語を表記に反映させることはできません。


しかし、それは「誰が太陽を消したのか?」が誤訳ということではありません。

突き詰めると、すべての翻訳は誤訳であるということになってしまいます。

(それは一面の真実ではあるのですが)


元々、外国語の意味を正確に移すなんていうことは、平仮名で書こうが漢字で書こうが不可能です。

ですので、読売新聞の間違いは「すべては許される」と訳した段階ではなく、その訳文からニュアンスを推測したという段階です。

原文の表現について何かを言うためには原語の知識が必要だという、ごく当たり前のことです。*3

id:yuki_chikaさんの間違い

「許す」と「赦す」は同じ意味ですよというタイトルですが、これはもちろん間違いです。


私個人としては高島俊男先生のファンですし、面倒な書き分けを増やすのにも反対で、なぜ広まった? 「『訊く』が正しい」という迷信という記事を書いたぐらいですが、書き分けをしている人にはその人なりの意図があるというのが当然です。

私が反対しているのは、「ask の意味では必ず『訊く』と書くべきだ」というような、これまで存在したことのない厄介なルールを導入することであって、「訊く」を ask の意味で使うことは止めていません(というより、止められません)。


同様に、「pardonner の意味では必ず『赦す』と書くべきだ」なんてバカらしい主張には反対だというのが私の意見ですが、「赦す」と書く人は permettre ではなく pardonner という意味に限定しようとして使っているというのはあまり争いのない事実でしょう。

意見と事実は分ける必要があります。


高島先生の意見を敷衍すると、日本語の「ゆるす」は pardonner と permettre にわたる*4広い意味を持っているので、書き分ける必要はなく、平仮名で書くか、漢字で書くにしても「許す」という代表的な表記ですべて表すようにしたほうがいいということになるでしょう。

実際、高島俊男先生ご本人はあらゆる和語の書き分けに反対している(「取る」「採る」「捕る」「撮る」などを書き分けず、「とる」または「取る」と書く)ので一貫性はあるのですが、普通はそこまで振り切ることはできません。

現に、id:yuki_chika さんも「採る」という表記は使っています。

私は別に反知性主義を採るものではない。

「『ググレカス』が世界を変える」…のか? 自由と情報をめぐる議論


これは使い方としてはごく普通ですし、揚げ足取りが目的ではありません。

言いたいのは、高島先生のような強烈なキャラクタの人間でもなければ、現代に生きて日本語を使う以上、誰でもある程度の和語の書き分けはせざるを得ないということ、そして書き分けをする以上は「何を書き分けて何を書き分けないか」ということは難しい問題とならざるを得ないということです。

まとめ
  • 読売新聞は、訳文から原文のニュアンスを推測するという間違いを犯しています。
  • 関口涼子氏は、「すべては許される」を誤訳とするという間違いを犯しています(「すべては許される」という訳文を誤読している、と書けば間違いのないところです)。
  • id:yuki_chikaさんは、「和語は書き分けるべきではない」という「意見」と、「和語の書き分けに意味はない」という「事実」を混同しています。


個人的には、シャルリー・エブドの真の意図についてはフランス語のわかる各個人が個別に判断すればいいことで、あまり意見はありません。

しかし、そこから派生した「ゆるす」の表記問題については黙っているわけにはいきません。

「今後この使い分けをしていこう」というならまだしも(もちろん私は個人的な意見として反対しますが)、「これまでにこういう使い分けがされている」という主張であれば、それは明確なです。

ちょっと考えれば、これまでの日本語で、例えば「いくら謝っても赦してくれないんだよ」みたいな気持ち悪い書き方はほとんど見たことがないということぐらい、誰でもわかるはずのところです。


それにしても、予想できることですが、「許す」と「赦す」の書き分けが成立していると(事実に反して)思い込んでいる人が大量に湧いています。

上に挙げた夏目漱石太宰治すらろくに読んでもいないくせに(あるいは、読んでも一瞬で忘れて)、ネットでそれっぽい漢字の書き分けを見ると1000年前から知っていたような顔をして得意げに書き込む頭の軽い人間ばかりのようです。

しかし、数からいうとそういう頭の軽い人間が圧倒的多数派でしょうし、今後それっぽい漢字の書き分けがどんどん増えていくのは、憂鬱ですが避けられないところかもしれません。


最近では、「笑う/嗤う」みたいな書き分けも頭の軽い人たちの間でかなり定着してきているみたいですし、次に出てくる新しい書き分け(個人的には「助ける/救ける/援ける…」あたりが来そうな気がしています)を1000年前から知っていたような顔をする準備をしておいたほうがいいかもしれないですね。

(まあ、そういう人は自然にそうしていると思いますが)


最後に、とってつけたように最近読んだ本へのアフィリエイトリンクを貼っておきます。


*1:指摘を受けて修正しました。

*2:"excuser(excuse)" というものもありますが、関口氏の話に出てきていないので省略します。

*3:しかし、pardonnéだからといって、“ムハンマドの風刺も「表現の自由」の枠内との見解を訴えたとみられる。” とは決して言えないかというと、そこは微妙なところだと思います。

*4:これは単純化で、「ゆるす」全体の意味はこれらに限定されるものではありません。