カッコイイほうの漢字

「醱酵」って漢字、見たことあるでしょうか。

「発酵」の別の書き方です。


「日食」月食」に対する「日蝕」「月蝕」などもあります。

難しい分だけ、かっこいいですよね。

これらの「かっこいいほうの漢字」のことを、ぼんやりと「旧字=本来の字=正しい字」とか思っていたりしませんか?


最近、こういう「かっこいいほう」の漢字を見る機会が増えました。

マイナーなところでは、「○○年 没」を「○○年 歿」とか、「麻痺」を「痲痺」なんていうものもあります。


まあ、スタイルとしてならそれもいいでしょう。

私も中学校ぐらいのころは旧漢字の練習をしたりしていました。

でも、中二あたりを過ぎた大人で、上に挙げたようなものを「正しい」とか言っちゃってる人がいたら、恥ずかしい人ですので大いに笑ってあげてください。

(ところで、ここでは「嗤う」が正しいとか思ってしまうような人も「笑い」ものです)


この記事を書こうと思ったのは、新刊「異体字の世界 最新版 」を買ったのがきっかけです。



著者の小池和夫さん(@)は JIS X 0213 という日本語の文字コード規格の開発に参加された方だそうです。

非常に読みやすく書かれた第一章をざっと読むだけでも、「正字」という概念の難しさがよくわかります。


日本の旧字体というものは、その多くを「康煕字典」という古い字典に依拠しています。


標註訂正 康煕字典 復刻 (辞典)


しかし、その序文にすら、康煕字典の本文で「俗字」とされているような文字が普通に使われているのです。

異体字の世界では、康煕字典はもちろん、隷書や篆書にまでさかのぼり、「正字」「俗字」「本字」といった概念の難しさを説き、また日本については当用漢字制定以前のさまざまな漢字簡略化・漢字整理の試みを挙げ、現代の漢字もその流れに連なるものであると肯定的にとらえています。

今の漢字が一夜にしてできあがったものであるかのように勘違いしている人には、ぜひ目を通してもらいたい一冊です。

書中では、著者の豊富な経験をもとに、さまざまな文字の異体字から、間違って JIS 規格に収録されてしまった嘘字に至るまで、文字のトリビアがこれでもかと詰まっています。

日蝕」 vs. 「日食」

さて、この本は改訂新版であることから完成度も高く、あまりツッコみどころも多くないのですが、どうしても見過ごせないところがありました。

日蝕」、「月蝕」、「腐蝕」は今では「日食」、「月食」、「腐食」と書くのが普通だが、漢字の意味からするとわけがわからない。「日月」を食べたり、「腐ったものを食べる」わけでもあるまいし。


あちゃー、やっちゃいましたね。

こういうことを書くと、「漢字読みの漢語知らず」だということがバレバレです。


そもそも漢字というのは、言うまでもないことですが(古代・現代の)漢語・つまり中国語を表すためにできたもので、まず「言葉」が先にあって、その後に「字」ができたものです。

そのことを理解していないから、かっこいいほうの漢字とかっこよくないほうの漢字があると、かっこよくないほうのことを“意味が通らない”とか“代用表記だ”とか言ってしまうわけです。


「日食」というのは古い言葉で、少なくとも二千年以上前からあります。

その当時の中国人の発音はわかりませんし、時代や地方によっても違ったでしょうが、仮にある時代のある地方で太陽のことを "nit"、食べることを "shok" と言っていたとします(安直ですが)。

さて、彼らが太陽が欠けるのを見たとき、太陽が食べられている、というような考えからか(頭の中まではわかりませんが)"nit-shok"、つまり「オヒサマ-タベル」のように言っていました。

それを漢字で書くと、「オヒサマ」は「日」と書き、「タベル」は「食」と書いていたので、当然「日食」と書くことになります。


さて、今のネットではさまざまな本のスキャン画像を見ることができます。

まずは、「史記」の「武英殿本」と呼ばれるバージョンを見てみましょう。


秦本紀 (史記)

「日食晝(昼)晦」、つまり日食で昼なのに暗くなったということです。


次は康煕字典です。


康煕字典「食」

「又日食月食」、少し先を読むと「日有食之」というものがあります。


“じゃあ「日蝕」は間違いなのか”と思ってしまう人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。

「蝕」という漢字は「食」と同音で、のちに「むしばむ」に特化した意味を指すために生まれたものです。

このように、元はひとつの漢字で表されていた広い概念が細分化して書かれるようになるということは、昔はよくありました。

三国志の「志」は「こころざし」という意味ではなく「記録」という意味なのに、その意味の「誌」が使われていないのも同じような事情です。


「日食」も「日蝕」とも書かれるようになり、康煕字典にも載っています。

しかし、「日食」も死に絶えたわけではなく、ずっと並行して使われ続けてきました。


もちろん、漢文とのつながりが今よりずっと強かった戦前の日本でも、「日食」は使われています。


(福澤全集)


まあ、こんな昔のことを今に生きる普通の人が知っている必要があるかといえば、そんなにないとは思いますが、こういった背景も知らないで、一知半解の知識をふりかざして“「日食」は代用表記だ”みたいなことを書いてしまうというのは恥ずかしいですね。

「醱酵」 vs. 「發(発)酵」

次は、これも「正しい」と思い込んでいる人が多い「醱酵」です。


実際、この表記は戦前には相当広がっていたもので、その当時は“「醱酵」が正しい”という雰囲気があったと思います。

どうしてそうなっていたかというと、一般人に漢文の知識がなかったからでしょうね。

いくら戦前は漢文が基礎教養だったといっても、戦前は長いですし、学問の中で漢文の占める比重は徐々に下がっていったのでしょう。


「発酵」という言葉も中国でできたものです。

現代中国語の知識でもあれば、"發酵"(fa1 xiao4 / fa1 jiao4)の "發"(fa1) という言葉が、まさに「発酵」のふくらむイメージにぴったりであるのが実感できると思います。


康煕字典は熟語を収録していないので、「發酵」そのものの項目はないのですが、「饅」という字の解説文に使われています。


康煕字典「饅」

「今俗屑麪發酵」とあります。


日本でも、少し昔の教養のある人は「發酵」と書いています。


(福澤全集)


では、「醱酵」は何かというと、平たく言うと嘘字です。

「醱」の字そのものは昔からあり、康煕字典にも出てきますし意味も近いのですが、中国語での発音が違います(現代音では "po1" です)。

"fa1 xiao4" はこれでひとつの言葉なのに、「醱酵」と書くと "po1 xiao4" となってしまいます。

そんな言葉はありません。少なくとも、ありませんでした。


しかし、日本では「醱酵」という書き方がはびこっていきます。

理由のひとつは、「發」と「醱」が日本の漢字音では両方「ハツ」になるということでしょう。

でも、一番の理由は「それっぽさ」じゃないかと思っています。


最近、こんなものを読みました。

最近のバカ親は「他人と同じは嫌」とか言って、お馴染みの漢字と似ているが
ヘンとかカンムリが付いてる字を使ってドヤ顔でいるのが流行りなんだそうだ

風→颯 利→莉 太→汰 などなど

2chの育児板ではそういうのを「エアロパーツ仕様」と呼ぶらしい

http://tonashibahu.blog.fc2.com/blog-entry-953.html


まあ、そこらへんにある普通の漢字より、何かついていたほうがかっこいいですよね。

戦前に、「醱酵」が「發酵」を押しのけて「正しい漢字」ヅラをしていたのも、日本人(人間一般?)に流れる「エアロパーツ好み」の血のなせるわざでしょう。


そのような事情があり、「醱酵」を正しい表記として挙げる辞書も多くありました。

しかし、きちんとした漢和辞典では混同していません。

ネット上で見ることができるKO字源というのは、「字源」という古い漢和辞書の電子版ですが、そこで「醱酵」を調べるとこう書いてあります。

酒母サケノモトの作用によりて酒氣がわきたつ。發酵の轉訛。


転訛、つまり元は「發酵」だと書いてあります。

また、「發酵」の項では齊書・禮志といった典拠を挙げています。


もっとも、この漢和辞書でも、解説文には「醱酵」を使ったりしています。

当時の言語状況に合わせたのでしょうか。


そういうわけで、戦前生まれの人が“「醱酵」と書かないと気分が出ない”と言うなら(通用していたものなので)まだわかるのですが、戦後生まれの人間が“「醱酵」が正しい”なんて言うのは噴飯物です。


「醱酵」に関しては、こういう恥ずかしい bot もあります。


また、「通信用語の基礎知識」なんていう恥ずかしいサイトでも当然のように間違えていますね。

こんな低俗なサイトで間違えていなかったら、逆にびっくりですが。


ところで、中国語では昔からずっと「發酵」なのですが、歴史的経緯から日本の影響が強い台湾では「發酵」と並んで「醱酵」も使われます。

「歿年」 vs.「沒(没)年」

いい加減くどいのですが、もうひとつだけ。


「戦没」「死没」の「没」ですが、これも「歿」が正しくて「没」が書き換えだと思っている人がいます。

後で述べるのですが、それをネタにコラムを書く人までいて、頭が痛い話です。


まずは、康煕字典から。


康煕字典「歿」

「古文沒字」、あっさりです。

「同上」とあるのは、上の「歾」の字を指しています。

「沒」の項でも、ほかのものに交じって「歿」も異体字として挙げられています。


次に KO字源です。

歿

沒(水部四畫)に同じ「隕─」「戰─」

やはり、異体字としての扱いです。

ただ、挙げられている用例からは「死亡」に関わることに使われることが多かったことがうかがえます。

漢和辞典としては異体字であることを示しつつ、実用的な意味で現状(当時)の使い方を挙げたということでしょうか。


次に、日本語での使用例です。


日本絵画史

「沒年」とありますが、右には「歿年」もあります。

もともと異体字とはそういうもので、ひとつのページの中で複数の書き方が混在しているということはよくあります。

どちらが正しいというものではありません。


以前、「元旦=元日の朝」説について書いたとき、「望文生義」という中国語について書きました。

「文を見て(勝手に)意味を想像する」という意味です。

この「歿」の場合は、望「字」生義とでも言うべきでしょうか。

かばねへんを見て、“「死」に関連する意味では「歿」が正しい”、ひいては“「死」に関連する意味では「没(沒)」は間違っている”なんて思い込む人が出てきたのでしょう。


上で触れたこのコラム(pdf)はその典型です。

「タモっちゃんには、むずかしいかな。「沈没」というと、沈むと没するだから、同じような意味の漢字を重ねた熟語だってわかるけど、「死没」だと、死ぬと没するだから、ちょっと変なのよ。」と、おばあさん。


何もわかっていない人が知ったかぶって、子供に対して(という設定で)嘘知識を得々と披瀝するなんて、みっともないの一言です。

ちなみに、「聴力障害者情報文化センター」というところのコラムのようです。


中国語の「没」には「なくなる」という意味があり、そのことは康煕字典にも書いてあります。

日本語でも「なくなる」は「死ぬ」という意味を持っているように、「しずむ」-「なくなる」-「死ぬ」とつながっていくのはごく自然です。

「没(沒)」と書こうと「歿」と書こうと、「しずむ」-「なくなる」-「死ぬ」という意味を持っているのは、文字の背後にある中国語の "bot" なり "mot" なりの音です。

言葉としての中国語を知らずに、漢字を完璧な文字のように崇拝しているから、「死ぬと没するだから、ちょっと変」なんて子供みたいな勘違いをしてしまうのでしょう。

その他

一般に「この字が正しい」と思われやすいものいくつかをダイジェストで。

  • 「注」と「註」は、「志」と「誌」、「食」と「蝕」などと似たような関係です。これはどちらもよく使われるので、ご存じの方も多いかもしれません。
  • 「麻痺」は「痲痺」とも書きました*1が、「麻痺」が元々の書き方です。
  • 「計画」の旧漢字は「計劃」が正しいと思っている人がいますが、元は「計畫」です。こちらの台湾の方のブログで詳しく調べられています。辞典では、漢書後漢書などを典拠に「計畫」を本項目としているのですが、台湾のサイトでは「計劃」のほうが多いそうです。エアロパーツ仕様好きというのは人類の仕様のようです。
まとめ

ここで書いた「日蝕」の件はいわば重箱の隅で、「異体字の世界」そのものは大変面白い本です。

それにしても、本文で康煕字典を引きながら、そのうえでこういう間違いをしているのが気になるところです。

康煕字典はあくまで字体の参照用で、中身まで読まれていないんでしょうか。


言うまでもないことですが、ここで挙げたようなものを「使うな」ということではありません。

「醱酵」などは嘘字ともいえますが、過去の日本では親しまれてきたものなので、スタイルとして使うのもいいでしょう。

「こっちが正しい」とか言い出さなければ。


文中では漢文をいくつか引きましたが、「現代日本語を書くのには中国語の知識が必要だ」と言いたいわけではありません。

過去の日本人が頑張ってくれたおかげで、いま一般に使われている常用漢字+α の普通の日本語(ここで使っているようなものです)を書くのであれば、中国人(過去・現在)の顔色をうかがわなくても堂々と書くことができます。

しかし、「本来は〜」みたいなことを言い出して過去の日本語を引っ張り出してこようとしたら、漢文も一緒についてくるのは当たり前です。

昔の日本人は中国文化を崇拝していて、その上に当時の日本語があったのに、漢文を学ばないまま過去の日本語のかっこいいところだけ都合良くつまみ食いしようなんてできるわけがありません。


なぜ広まった? 「『訊く』が正しいという迷信を書いたときもそうでしたが、「簡単でかっこ悪いこの字は間違いで、難しくてかっこいいこの字が正しい」というようないい加減なものを見ると、どうしても「それは違う」と言わざるを得ません。

私個人としては、戦後の日本語にはそれなりに満足していますので、それを必要以上にかっこよくしたくはないですね。


最後に、もう一冊本を紹介します。



こちらは語彙を中心としたものですが、コーパス研究を通して、明治以降の日本語の語彙がどのように発展してきたかを明らかにしています。

過去の日本語に興味があるのであれば、薄っぺらい漢字対照表みたいなものを覚えるのではなく、このような本を読んだり、また何より過去の本に直接触れたりして知識を身につけてほしいものです。

*1:字体差については置いておきます。