なぜワクチン接種がひどいことになっているか、そしてその対策

日本のワクチン接種がひどい状況だ。

そもそも、電話で予約して早い者勝ちで接種権を獲得するなんていうのが頭がおかしい。


これがコンサートとかの予約ならまだわかる。

コンサートとかの場合、需要と供給で決まる自然な(高い)価格があり、そしてその自然な価格で売りたくない(ぼったくりと言われたくない)売り手がいる。そして、転売屋が安い価格でチケットを買い占め、ヘイト代として利益を稼ぎ、自然な(高い)価格で転売することになる。

非効率的ではあっても、そうするだけの理由があるわけだ。


しかし、ワクチン接種というのは集団免疫獲得のためにやるんだから、遅かれ早かれほぼ全員に行き渡らせることになる。

ほぼ全員に行き渡らせるものを、なぜコンサートチケットのように扱っているのか?

そこには、「責められ」の回避をどこまでも追求する現代日本人の心性が関わっている。

「責められ」とは?

「責められ」というのは、ツイッターで流行っている文法で、動詞の連用形をそのまま名詞にするというものだ。

「怒られが発生した」というのを目にしたことがある人は多いだろう。

「責められ」とは、つまり非難されることだ。

「責められ」の回避とワクチン

原因はともかく、現代日本人はこの「責められ」を回避するために生きるようになっていきつつある。

なぜそうなっているかについての考察は後に回して、それがワクチン接種とどう関わっているかを先に書く。

(以降、「責められ」を回避するためだけに生きている人間を「新人」、そうでない旧来の人間を「旧人」とする)


なぜ現状のように、早い者勝ちのやり方が蔓延しているのか?

それは、そこに選択の責任がないからだ。


例えば、100万人いる県にまず1000回分のワクチンを先行配布して、その実績から全員に接種する場合の見積もりをしようと考えたとする。

その場合、「旧人」の発想としては、適当なモデル地区を選んで接種を実行する、ということになるだろう。

それが、テストとしての先行配布という趣旨に合うものだからだ。


しかし、「新人」の発想では、その趣旨というのはどうでもいい。

モデル地区を選ぶということは、そこを優先するということになってしまい、その不公平性に対して「責められ」が発生する可能性があるからだ。

ここで、実際に「責められ」が発生する可能性がどれだけ高いかはあまり重要ではない。

「新人」にとっては、「責められ」=死なので、それの可能性が0.01%でもあれば十分に避ける理由になる。


早い者勝ちということにすれば、一応、平等な機会を用意したという申し訳が立つ。

その結果、ワクチン接種がスムーズに行かなくて、日本のコロナ死者が何十万人になろうと、自分の命(「責められ」の回避)に比べたら大した問題ではない。

このあたりは「旧人」には感覚的にわかりにくいところだろう。

答え合わせ

この記事を書き始めたのは、河野大臣の談話を読む前だった。

さて、この談話を見てみると、まさにこの考察通りの成り行きになっているようだ。

旧人」の河野大臣は、次のように書いている。

住民と直接接している自治体は、公平性とか平等性を思いのほか強調せざるを得ませんでした。(中略)自治体が平等性にこだわるというところを、私が見損ねた分があって、色んな所にご迷惑をおかけしています。


「平等性にこだわる」というのは、「責任を取りたがらない」の婉曲表現だ。

まさに、この記事で書いたようなことが起こっているわけだ。

対策

では、どうすればいいか?

河野大臣がすべての責任を負うということを明確にしていくしかない。


例えば、志布志市(ネットで有名なので適当に例に挙げた)の接種をどういう順番で進めていくかなんて、本来であれば大臣の関わることではない。

しかし、現場を担当する人間の多くは「新人」なので、そういう「旧人」の常識ではうまくいかない。

接種の順番は、有明町伊崎田、その次は有明町野井倉という順番でやります、ということについて、大臣が直接責任を取る必要がある。

マイクロマネジメントという言葉があるが、この場合はマイクロ責任取りとでも言えるだろうか。

そうすると、現場の「新人」も、安心して機械的に作業ができることになる。

順番については、例えば郵便番号順といった指針を示すのもいいだろう。

(上で挙げた例も郵便番号順だ)

それがどれだけ望ましいかはともかく、現場の「新人」に任せると、全部の接種を早い者勝ちにした挙げ句、「平等性を重視したうえで最善を尽くしましたが間に合いませんでした。ワクチンは大量廃棄することになって日本人が大量に死にましたが、最善を尽くしたのでしょうがないですよね?(責めないでくださいね?)」ということになってしまう。

それよりはどんな順番だってマシだ。


ところで、河野大臣は次のようにも言っている。

数が限られてるため、接種券を一度に出さずに、例えば、100歳以上とか95歳以上とか、あるいはこの地域とか限定をして、接種券を配ってくださいということを、私がもうちょっと強く言えば良かったと思います。

強く言うというのは、要するに「責め」だ。

それでは「新人」のヘイトを買うことになるだろう。

過渡期ゆえの問題

なぜ今回のような事態になってしまったか。

それは、「旧人」の河野大臣が、「新人」の現場職員の思考回路を予測できなかったことにある。


現在は、「旧人」と「新人」が混在する過渡期にある。

過渡期が過ぎて、ほぼ全員が「新人」だったらどうなっていたか?

その場合、皆が「責められ」=「精神の死」を回避することが最優先で、その次の課題として「肉体の死」の回避があるということについてコンセンサスがあるので、第一に責任回避体制が確立されるところだろう。

接種順であれば、いろいろな順番の案を作り、それを国民投票にでもかければいい。

(その世界では、国民投票も今よりずっとカジュアルになっているだろう)

国民の合意という錦の御旗があれば、それに対して「責め」を負うのは国民全員、つまり無責任化されることになる。


旧人が多く残る現状では、新人は「責められ」の回避が最優先だということを堂々と主張できない。

しかし、行動としてはそれに従う。

ということで、今回のような見込み違いが発生することになる。

今回は、旧人の見込み違いで責任回避体制の確立が遅れてしまった以上、旧人が責任を取るということを表明するしかないだろう。

新人の発生原因

ワクチン接種をどう進めればいいかについての話は前段までで終わりだが、ここからは「なぜ新人が発生したか」について考察してみる。


そもそも、旧人にとっての「責め」とは何であったか。

それは、評判システムに関わっている。


人間は、法律ができるはるか昔から、日常的に倫理を運用してきた。

獲物を独り占めにしないでみんなで分け合わないといけない、等々。

さて、司法という強制力なしに、人間はどうやってその倫理を運用してきたのだろうか?


そこには、「個人は狭い共同体を離れては生きられない」という条件があった。

数十人からなる共同体の中で、「あいつは獲物を独り占めした」「あいつは卑怯なやつだ」という評判が立ったら、共同体のメンバーから白い目で見られることになる。

もし、最終手段として共同体から追放されることになったら、どれだけ狩りの腕が優れていたとしても、生きていけない。何よりも、生殖できない。

そういうわけで、倫理というものは強い強制力を持ってきた。



その状況は、法律ができても、産業革命が起こっても、飛行機が飛んでも、基本的には変わってこなかった。

人口の大部分は狭い共同体の中で生きていて、その中での評判は人生を左右するものだった。

例えば、ふしだらな女性は、まともな相手と結婚することはできなかった、というように。


その状況が、ここに来てついに壊れることになった。

今では、お金さえあれば人間は一人でも生きていける。

生殖についても、誰も自分の評判を知らないマッチングアプリで自由に活動できる。


「責め」というのは、評判システムの中では、「お前はこういう悪いことをした、だから評判を下げる」という準司法的な働きをしていた。

評判システムは実効性を持って運用されていたので、その中の「責め」は避けがたいものであり、それを受けた人間は嫌でも従うしかなかった。


さて、「評判システム」が壊れた現代に生きる「新人」にとって、「責め」とは何か。

「責め」がシステム上の機能を失ったいま、それはただの理不尽な攻撃に過ぎない。

それを受けるということは「精神の死」であり、それを避けることは何よりも優先すべきことになった。

(余談だが、これは野党不振とも関わっているんじゃないかと思っている。旧人にとっては、例えば嘘をつくというのは倫理に反することで、「責め」を加えてもいいということになる。しかし、それを「新人」が見ると、「AがBを刺している」ようにしか見えない。Bが嘘をついたからといってAがBを刺したとしたら、誰がAの味方をするだろうか?)


しかし、ここで大きな問題がある。

評判システムの機能不全を認め、「責め」を放棄したところで、法律と日常生活の隙間を埋めてきた倫理の代替はどうするのか?

それなしでは、今回のように、ワクチン接種さえままならず、健康に生きていくという基本の基本(新人にとっても、命は「責められ」の回避の次に重要なものだ)さえ危うくなってしまう。

新人が大多数を占めるようになったら洗練された責任回避体制が完成するのかもしれないが、それまでの過渡期はどうするのか?

その答えはぼくは持っていない。