「〜足りうる」という書き方
ちょっと前に、次のようなタイトルの記事を見てびっくりしたことがある。
これを見たときは、頭が痛くなる気持ちだった。
電子書籍とはいえ、「書く」ことに携わる人間が、どうやったら「足りえない」なんて書き方ができるんだ? と。
そう思ったが、その時はただ「こんなアホもいるのか」と、個別の人間の問題に帰して流してしまった。
しかし、つい先日、次のような本を目にして言葉を失った。
柏艪舎
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「文芸翻訳は一生の仕事足りうるか」という副題。
これは電子書籍ではなく、紙の本だ。
出版されるまでには、何人もの出版関係者の手を経ているはず。
そもそも、著者からしていい年をした文芸翻訳家のようだ。
どうしてこんなことが起こりうるんだ?
まさにポルナレフ状態。
ネットでいろいろ検索してみると、どうやらこの「たり」を本当に「足りる」という意味だと思っている人が少なからずいるようだ。
また、これまでにもこの現象に気がついていた人はぽつぽついたようで、ブログ記事なども見つかった。
まあ、それらに付け加えて何か新しいことが言えるというわけではないけれど。
思うのは、変化が「速すぎる」ということ。
前になぜ広まった? 「『訊く』が正しい」という迷信という記事を書いたときにも思ったけれど、五年前や十年前には普段目にしなかったような表記がネットの中でぐるぐる回るうちに、あっという間に「正しさ」の雰囲気をまとってしまう。
ただ、「訊く」のほうは好みの問題といえるが、「足りうる」は明確な間違いだ。
日本語のコーパスを見ても、このような表記はほとんど*2ない。
正解はもちろん、たりうる*3という平仮名。
これは助動詞で、古語辞典で「たり」を調べると出てくる「たり 助動詞 タリ活用型」がそれだ。
格助詞「と」+ラ変動詞「あり」からなる「とあり」の変化した語。
「〜たりうる」はこれから来ていて、現代語にすると「〜でありうる」・「〜になりうる」となる。
それにしても、みんな学校で古文をやったんじゃないのか。
ぼくも古文は真面目にやっていなくて、覚えているのは残りかすみたいなものだけど、みんなそれ以上にきれいさっぱり忘れているのか。
「学校教育に古文・漢文は必要なのか」という論は定期的に出てくるが、教えられていても誰の頭にも残っていない現状を見ると、本当にやる意味はないのかもしれないと思えてくる。