ぼくはこうやって(8年前)Googleに入った

入って1年ちょっとで辞めたぼくだが、流れに乗って書いてみる。


正直なところ、ぼくが書く意味はないと思った。

「どうやって」という話になると「入社試験を受けたら入れた」ということになるし、それはもう他の人が書いているからだ。


しかし、他の人の記事を見ているうちに、これならぼくが書けば違った視点からの記事が書けるんじゃないかと思った。

テーマは「光と影」。


ぼくの生い立ちを少し語る。

両親は京大卒。

父親は大学教授(最終的に)。

母親はぼくが2歳のときに統合失調症を発症、17歳のときに自殺。

子供は姉(2歳年上)とぼくの二人。


母親が統合失調症で病院に出たり入ったりしていたため、ぼくは家で姉と二人になることが多く、壮絶にいじめられた。

自閉的傾向が強かったぼくは、姉からしたら気持ち悪い存在だったんだろう。

その当時(ぼくは1974年生まれ)は自閉症なんて知られていなかった。


ぼくはどこからどう見ても問題児だった。

気に入らないことがあると泣きわめいたり、学校の教室でコンパスを投げたり、塾(日能研)でからかわれて激昂してガラスのドアを足で割ったりしたことを覚えている。


日能研には小5のころから通っていたが、ぼくはろくに勉強していなかった。

一番前の席(成績順だった)でノートに「しかくいち」(囲み文字)を立体的に描いていたら、先生に「お前何のためにここに来ているんだ」と言われたというエピソードがある。


しかし、成績はよかった。

実力テストのたびに全国○位とかになって、賞状と賞品(鉛筆やノート)をもらったりしていた。


中学校は関東の私立の中高一貫校に通った。

定期テストの成績はそれなりだったが、実力テストではだいたい順位が上位5%ぐらいには入っていた。

しかし、一回古文の先生に「こういうやつは高校で失速するんだ」的なことを言われたのがやけに印象に残っている。


高校からは関西に引っ越すことになり、公立校に入った。

入学一発目のテストで偏差値90を取った。

(これは私立中学のカリキュラムが進んでいたというのもあるだろう)


勉強する習慣はつかないままで、古文の先生の予言通り、成績は少しずつ失速していった。

大学受験は、前期は京大理学部、後期は工学部の情報工学科。

前期は落ちたが、後期はセンター(だいぶよかった)の配点が大きかったこともあって、何とか引っかかった。


しかし、京大は1年で中退。

大学に入ってからも勉強するものだとは思っていなかった(それ以前もしていなかったが)ぼくは、理系の大学という当たり前に勉強が求められる環境で一瞬で脱落してしまった。

古文の先生の予言が的中したようなものだが、大学入学後になるとは…。


京大ではろくに授業に出なくなっていたが、語学の授業だけは出ていた。

それで、大阪外大(当時)を受け直すことにした。

成績的に落ちるはずがなかったので、対策なしで(京大のときは対策していたのか?)受けて、受かって、入った。


大阪外大では中国語を専攻*1し、1年が終わってから中国に留学した。

ルームメイトを始め韓国人が多くいたので、中国語以外にも、高校のころちょっと勉強していた韓国語もだいぶうまくなって帰って来た。


外大では、3年の終わりあたりで精神の状態を悪くして1年休学した。

この時期には自殺を考えたこともある。

また、レポートがどうしても書けないという問題があって単位が足りず、1年留年した。

1浪1留(学)1休1留(年)という4年遅れで卒業した。


就職活動はろくにできていなくて、卒業してもしばらくは無職だった。

8月になってやっと、中韓語とプログラミングが生かせる小さな会社があったので、そこに応募して、入れることになった。


プログラミングは中3のころからやっていた。

MSX2というパソコンで、雑誌に載っていたゲームのソースを入力しつつプログラミングに触れ、当時流行っていたテトリスを実装することで身につけた。

アーケード並みの速度にしようとするとマシン語に触れる必要があり、そのことが後々役に立った。

その時期の話はここ


小さな会社では5年ほど勤めて、飽きたので気分転換に辞めることにした。

1年半ほどぶらぶらして、そこから急に思い立って大学院に入ることにした。

会社では自然言語処理っぽいことをしていたが、何の基礎もなかったからだ。


元の小さな会社でアルバイトとして勤務しつつ、受験勉強をした。

特に「オートマトン 言語理論 計算論 I」という本は面白かった。



考えてみると、意識的に勉強したのはこれが初めてだった。

勉強することによってわからなかったことがわかるようになる体験をして感動した。

それまでは、わかること・わからないことというのはあらかじめ決まっているようなイメージだった。


大学院は、京大とNAISTに受かり、京大に行くことにした。


京大では、計算量理論などの授業が面白かった。

勉強する習慣が少しついていたので、アルゴリズムイントロダクションの独習をしたりもした。



同級生(といっても12歳も下だったが)が就活していたので、35歳のぼくも新卒みたいな顔をして就活をしてみた。

といっても、就活力(人間力)がどうしようもなく不足していたので、書類で応募したのが3社で、面接に進めたのが2社だった。

その中の1社がGoogle

全落ちしたら元の会社に出戻る予定だった。


Googleの面接は、コンピューターサイエンスのセンス(≒知能)を問うようなものばかりだった。

ぼくはそれなりに答えられて、それなりに手応えがあった。

といっても、合否ラインは倍率次第だから安心はできなかった。

合格の電話がかかってきたときには、さすがにテンションがかなり上がった。


しかし、入ってわずか一年ちょっとで、適応できずに辞めてしまうことになる。

退職エントリにはかっこいいことも書いたが、それは一面だ。

もう一面は、Googleの「光属性」に耐えられなかったというものだ。


まともな入社エントリを書くようなGoogleの人間は、「自分は頑張ったからGoogleに入れた、みんなも頑張ったらGoogleに入れるよ」的なことを言っていたりする。

気持ち悪い。

ぼくがGoogleに入れたのは、遺伝子のおかげじゃなかったら何なんだ?



Googleに入るような人間がそういう考えになるのもわからないこともない。

知能以外にも能力のバランスの取れている彼らは、だいたい同じような知能の人間に囲まれて育ってきているんだろう。

「(東大の同級生の)みんなも頑張ったらGoogleに入れるよ」と補完したら、特に不自然なことはないのかもしれない。


でも、ぼくはいろいろ問題が多い人間なので、そういう均質なグループには属せない。

だから、ぼくはそういう考え方はできないんだと思う。


まあ、Googleの人間がそういう考え方をしていても別にいいんだけど、ぼくはそういう光の領域にはいられない。

その領域では、人間はみんな平等に生まれて、頑張った人が報われるもので、頑張れてる自分たちが他の人も頑張れるように助けてあげよう、という感じなんだろう。


ぼくは生まれながらにして影の領域の住人だ。

そこでは、人間は自閉症だったり、双極性障害だったり、統合失調症だったりする。

脳内伝達物質の不調で過眠や過食だったり、自傷行為や自殺未遂をしたり、引きこもったりする。

精神科に行っても、いい薬がなかったり、効くと思った薬が副作用のせいで続けられなかったりする。

そういう領域にいると、光の領域の住人が「頑張れば○○できるよ」とお気軽に言っているのを聞いても、ケッとしか思えない。


努力を否定するわけではない。

例えば、自転車に乗りたいと思っている人が頑張って自転車に乗れるようになるといったことは、とてもいいことだと思う。

これは、「できなかったことができるようになる」という意味でのいいことだ。


しかし、もう一段階メタに考えると、もっといいのは「『できなかったことができるようになる』ことができるようになる」ということだ。

日常的に、「自分にはできないと思っていたことにトライして成功する」ということができるようになるということ。

そのためには、ちょっとした成功体験を積み重ねるのがいい。

そうしようと思うと、「自分には何があとちょっとで手が届きそうか」ということを見極める力が必要だ。


そういうときに、「みんなも頑張ったらGoogleに入れるよ」みたいなのはノイズでしかない。

高知能人間を集めようとあらゆる手を尽くしているくせに、よく臆面もなくそんなことが言えるなと思う。

数から言っても、東大(1年に3000人も入る)よりもずっと狭き門だ。

もっとも、できるだけ多くの高知能人間を集めるためには、誰にも諦めさせないで取り漏らしをなくすというのが合理的なのだろうが。


ポジティブでいるためには「人間は誰でも何にでもなれる」という嘘を信じる必要があるのか?

ぼくはそうは思わない。



ぼくは、一部のGooglerのような底抜けのポジティブさは持てない。

それどころか、生きるのがつらくて、死にたいとしょっちゅう思っている。

それでも、生きている間は、少しでもできることを増やしたり、また他の人ができることを増やすのを手伝ったりしたい。

そういう意味ではポジティブでありたい。


最後に、ぼくの好きな「シーラという子」という本から引用する。

夕方のニュースをつけて、どこか遠くで起こった目新しい派手な出来事を聞いている間に、私たちは自分たちの間で演じられている実にリアルなドラマを見逃してしまっている。どんな外の出来事よりもすばらしい勇気あることがすぐそばで行なわれているというのに、残念なことだ。子供たちの中には、ひとつひとつの動作をするたびに、いわれのない恐怖に襲われるという悪夢で頭がいっぱいの子供がいる。…それでも彼らはなんとかがんばっている。ほとんどの場合、他にどうすることもできずにそういう状況を受け入れている。


*1:これは「専攻語」で、学科は国際文化学科とかいうやつだったが。