受験英語の不幸
僕が英語話せないのは日本の教育のせいを読んで。
学校で英語を学んできたものとして、筆者の言いたいことはよくわかる。
ぼく自身も、いまだに英語には苦手意識がある。
どうしてこうなってしまうんだろう?
自分なりに考えてみた。
語学の本質的な困難さ
外国語は難しい。
最低でも何千という単語や熟語を覚える必要があり、さらにそれらの単語が文脈の中でどう使われるかも把握しないといけない。
これは頭の良さで何とかできるものでもない。
これが物理なら、基本的な公式を数個だけ覚えて、後は自分で考えて解くということもできる。
しかし、英語には「この数個の公式を覚えたらそれでOK」のようなものは存在しない。
そういう意味で、難関大学に行くような人にとっては、英語の「割に合わなさ」のような感覚があるんじゃないかと思う。
受験英語で求められるレベルの高さ
英語や国語以外の教科では、出題範囲がかなり明確に決められる。
高校までの教科書の内容を完全にマスターしていたら大丈夫だ。
しかし、英語についてはそういう範囲がないので、どんな難しい単語が出てくるかわからない。
元記事で「ニッチな単語」というのが言及されていたので、京都大学の過去問を見てみた。
和訳させる下線部はそこまででもないけれど、それ以外のところには "inscribe", "encompass" のようなものがある。
アルクの SVL という基準でいうと、それぞれレベル12(12000語レベル)・レベル10(10000語レベル)だ。
これらをカバーするためには、12000語程度を覚えていなければならないということになる。
もちろん、問題を解くために全部の単語を知っている必要はないけれど、完璧を目指す受験生はそれを目標としてしまうかもしれない。
そういうレベルの単語は、大人のネイティブスピーカーが読むものには出てくるとはいっても、受験生からするとニッチと思えるだろう。
バランスの悪さ
京大入試の問題は、相変わらずの「英文和訳」と「和文英訳」だけ。
それを目標に最適化した学習をすると、レベルの高さもあって、「読む」「書く」だけで精一杯になってしまう。
そのうえ、学校教育ではリソースの問題で「聞く」「話す」力をつける授業が行われにくい。
そういった偏りがある状態で「読む」「書く」だけのレベルを上げようとしても、感覚的にピンと来ないまま単語を詰め込むようなことになってしまう。
また、受験英語に対応するために必死で勉強したのに「聞く」「話す」能力がついていないと、「こんなに勉強したのになんで聞けない・話せないんだろう」という理不尽感も持ってしまう。
英語教師の人材不足
英語ネイティブやそれに近い教師がそこら中にあふれているなら、学校で「聞く」「話す」に力を入れることも可能かもしれないが、現状はそうではない。
これは地理的な問題もあると思う。
英語圏から距離(物理的・心理的)の近いところであれば、ネイティブスピーカーの教師や、それらの国に滞在経験のある教師も探しやすいだろうけれど、日本はそれに当てはまらない。
空気の支配
日本の学校には、「英語っぽい発音で読んではいけない空気」がある。
これがどうやって形成されるのかは謎だが、確かに自分でも経験した。
ある個別指導塾で英語を教えていたとき、ひとりの生徒に "Australia" の発音を教えようと、"オーストレイリャ" のように発音して、生徒に繰り返すように言ったところ、「おーすとらりあ」としか言わない。
もう一度やっても、頑なに「おーすとらりあ」を繰り返す。
そこでやっと「そういえば教室で『オーストレイリャ』なんて発音できないよなぁ」と気付いた。
「おーすとらりあ」と読んでおくのが、無難で安全だ。
「日本人に笑われない」ためには、カタカナ英語で身を守らざるを得ない。
直接学校教育によるものではないにせよ、残念なことだ。
学校英語不信
いろいろな要因で学校教育が必ずしもうまく行っていないため、学校英語は「使えないもの」の代名詞のように考えられている。
これも個人的な経験になるけれど、英語圏に行ってきた知り合いに「向こうで本当に "This is ... speaking." って言うんだね、学校英語かと思ってた」と言われたことがある。
その人の頭の中では、「学校英語」≠「本物の英語」という図式ができあがってしまっているということだ。
そんな不信感を持ちながらでは、身につくものも身につかなくなってしまう。
ぼくが思いついたのはこれぐらい。
まとめると、外国語は本質的に難しいのに、高いレベルの英語の読み書きが求められ、そのため「話す」「聞く」がおろそかになりがちで、それを補えるような英語教師も多くなく、本場っぽい発音をしようとすると同級生に笑われ、学校教育はダメだというイメージがついてしまっているというところだろうか。
それぞれについて、どうやったら対処できるか考えてみる。
まず、語学の本質的な困難さ。
これはなかなか手ごわいけれど、自分に合った勉強法を工夫することで多少はマシになる。
人によって向き不向きがあるので、いろいろなやり方を試してみるのがいいんじゃないかと思う。
ぼく自身もいろいろ工夫していて、「時間のない人のための、本気の英語学習法」をはじめ、いろいろ記事を書いたりもしている。
次に、受験英語で求められるレベルの高さ。
受験のレベルは自分ではどうしようもないので、受験のことはいったん忘れて低いレベルから始めるのがいいんじゃないだろうか。
プライドをいったん置いておいて、子供向けの本や漫画といった軽めのものから入って、徐々にレベルを上げていくようにする。
バランスの悪さについては、意識的に「聞く」「話す」に重点を置く。
できるだけ音声のある教材で勉強するなど。
受験で求められるものが読解力だけだとしても、その後のことを考えると結局はバランス良く勉強しておくのがいい。
英語教師の能力問題は、授業を受ける立場としてはどうしようもない。
個人的には、あんまり勧められたことじゃないかもしれないが、授業時間に自分で勝手に勉強するということをしてもいいんじゃないかと思っている。
教科書から外れた勉強をしても実力がつくというのは外国語のいいところ。
教科書を読まないで好きな本ばかり読んでも、結果としてテストでそれなりにいい点は取れるようになる。
空気の支配については、意志を強く持って流されないようにして、実際の発音や、それを写した発音記号に従った発音をすることを心がけるしかない。
学校英語不信は、まず自分がネイティブが読む・聞くようなものに多く触れることで、結果として「学校英語で習ったことはそんなに実際に使われる英語と違うわけではない」ということが実感できるんじゃないかと思う。
こちらもまとめると、外国語の難しさを認識したうえで勉強方法を工夫して、最初は低いレベルから始め、「読む」「書く」「話す」「聞く」のバランスに気をつけ、授業にはあまり期待せず、笑われることを恐れず実際の発音に近づける努力をして、学校の英語も頭から疑わないということになる。
学校英語については多少の矛盾があるように見えるけれど、「疑わないけれど期待もしない」という態度。
ぼく自身、教科書がダメだと思っていたわけじゃないし、一応目は通すけれど、授業中には好きな本を読んだりしていた。
学校教育を正面から批判したところで、鬱屈した教員に上から目線で馬鹿にされるのがオチなので、期待するのはやめて独学するのがいいと思う。
さて、お勧めの勉強方法というのがあるのだが、長くなりすぎるので別記事に分けた。