マッチョとの戦い

今のネットは面白い。

ツイッターでは、毎日のようにエアリプ、つまり相手を書かないほのめかし合いがやりとりされている。

時には、ブログでも同じようなことが起こる。

ちょっとした愚痴を書いたつもりが、愚痴ってんじゃねーよ的な反応を呼んだりする。


面白い。

やってやろうじゃないか。

これは、空中から空中へ向けての戦争だ。


ぼくは、たとえばオープンソースへの貢献度から言ったら無名であるべきエンジニアだ。

くだらない記事をいくつか書いて、一部界隈で多少有名になったにすぎない。


じゃあ、なんでものを言うのか。

知ったことか。

ものを言うのに資格があるか。

多くの人間が、ものを言うのには資格があると思っていることは知っている。

しかし、実際にあるのはお前が読むのをやめる権利だけだ。

その権利は妨げないから、「資格」とか言わずに "shut the fuck up" とでもつぶやいて今すぐブラウザを閉じろ。

ぼくは、それが分不相応であろうと、与えられたチャンスを最大限に活用する。


ぼくはただ、「多くの人間の中で自分だけが、自分でものを書いて公開するという優れたアイデアを見つけ出した、オレは偉い」的なことを考えているように見えるやつがムカつくだけだ*1

世の中にどれだけ、自分にできる限りのアウトプットをして、それでも泥沼から抜け出せない人がいると思っているのか。


もうひとつは、これが終わりのない競争、言葉を換えると自由時間のダンピングだということだ。

今は、大多数の人間がそのダンピング競争に乗ってきていないから、自分だけダンピングしたらチャンスがあるかもしれない。

十分な才能があって(ここは譲れないところだ)、十分な情熱と時間を注げば、スターエンジニアになれるかもしれない。


しかし、みんながその競争に乗ってきたらどうなる?

すべてのエンジニアが GitHubリポジトリを持ち、仕事外の時間をすべてそこに注ぎ込む世界。

そこでは、最高に才能があって、最高に情熱があり、最大限に睡眠時間を削ったエンジニアしか浮上できないだろう。

尊重されたくて努力する 99 % のエンジニアは、いくら努力してもどうにもならない。

ワークライフバランス」なんて言葉は前時代の遺物になるだろう。


そうなれば、ソフトウェア的には世界はものすごく豊かになる。

でも、みんなが自由な時間がなくて、向上を目指してひたすら努力しなければいけない世界にゲームや SNS やその他ツールがあったとして、それが何になるんだ?


もちろん、それを理由に仕事外で勉強しないというわけにはいかない。

そうすると負けるからだ。

だからぼくも、自分の興味と向き不向きと換金性のバランスを考えながら、勉強を続けている。

どちらにせよダンピング競争に参加するなら同じことだと思われるかもしれないが、ぼくはそれを肯定的にとらえて陶酔したくない。


お前は次に、「自分はそれが楽しいからやっているだけだ」と言う。

ならいい。

その代わり、毎日ソーシャルゲームで時間をつぶしている人間を見下すな。

お前と彼らの間に、どんな差があるというんだ?


何の実績もないぼくがここで何を言っても、「資格」主義者には負け犬の遠吠えにすぎない。

でも、届くかどうかわからないが、ぼくはゲリラ的にそいつらの頭にミームを撃ち込む。

「お前の今があるのは、どれだけが生まれ持っての才能で、どれだけが努力の成果なんだ?」と。


ぼくはオープンソースにはろくな貢献をしていない。

多少何かができたのはウェーブレット行列関係ぐらいだ(それも、wat-arrayというウェーブレット木のライブラリに乗っかったものだ)。

https://github.com/hiroshi-manabe/wavelet-matrix-cpp

ブログでは、中学生にもわかるウェーブレット行列のほかに簡潔データ構造 LOUDS の解説(全12回、練習問題付き)などを書いた。

ぼくの書いたものが、そちらの世界でどれだけの「偉さトークン」に換算されるのかは知らない。

知ったことか。

高額換算されたらケッと思うだけだし、低額換算されるならそうかいと思うだけだ(微妙な差だ)。


いくらに換算されるにせよ、ぼくがウェーブレット行列や LOUDS などを面白いと思えたのは、たまたまにすぎない。

ぼくの生まれ持った頭脳の巡り合わせによっては、同じ題材を見ても、簡単すぎてつまらないと思ったかもしれないし、難しくて手が出ないと思ったかもしれない。

別の世界線の自分は、ハノイの塔のプログラムを理解するのに精一杯だったかもしれない(バカバカしい仮定だと思うか? CS専攻の大学生一クラス全員をハノイの塔が書けるぐらいまで育ててみせろ)。

そっちの世界の自分が、頑張ってハノイの塔のプログラムや解説記事を書いていたとして、それがどれだけの偉さトークンに換算されたというんだろう?

それらは、The Internet の中では、今以上に誰にも顧みられなかったんじゃないだろうか?


人間には適性がある。

ぼくは、多少のプログラミング、少しの語学の適性がある。

(ここで言う「多少」というのは、100 人に 1 人*2ぐらいという、平凡な環境にいればなかなか自分以上が見つからないが、ネットでは何者にもなれないレベルという意味だ)

世の中の 49.99 % の人間と同じように、一時間で gem を 2 個書けるような人間と、頑張っても FizzBuzz も書けない人間との間のどこかにいる。(50.00% は FizzBuzz が書けないほうの部分だ。数字は適当だ。)

それでも浮き上がれなくて、泥沼から抜けようと、必死でもがいている。


しかし、それでもぼくは、多少のプログラミングの適性はあると思えている。

ぼくの持っている適性が、たとえば「編み物」だったらどうだっただろう?

現代で、編み物をたとえば平均の 3 倍の速度でできたからといって、それでどこかで浮上できるのか?


もちろん、その世界線の自分も、その持ち合わせた適性で、何とかやっていこうと頑張っていただろう。

その点では、この世界線の今の自分と同じだ。


それに、自分がどうやって生きるのがいいかを考えられるというのは、それだけでものすごく恵まれている。

ぼくが曲がりなりにも長期的な生存戦略を考えられるほど余裕が出てきたのは、けっこう最近のことだ。

昔の自分は、「どういう思考をすれば長期的に自分にとっていい結果になるか」という、いわゆる「メタ」な思考ができていなかった。

そのころの自分は、死の恐怖におびえながらハンドルのない車に乗っているようなもので、自分に何がコントロールできるのか、何ができないのかもわかっていなかった。

少しずつコントロールできるようになったのは、ハンドルのない車でいろいろぶつかっていてもとりあえずのところは死んでいないと心を落ち着け、いろいろな機械を触ってみて、アクセルを踏んだらなぜか進路が右にずれるとか、そういうレベルでかろうじて障害物をよけたりすることができるようになってからだ。

自分の人生がそうだったのは、生まれも育ちもあるけれど、決して 0 歳や 5 歳や 10 歳や 15 歳の自分が何かをサボったからではない。

「まっすぐ進んだらいい景色のところがあるのに、どうしてまっすぐ進まないの?」

大きなお世話だ。


そういう自分にとって、人間は「どうすることが自分にとって最善かを考えて生きている」というのと「それだけの余裕がない」というののどちらかしかないと思っている。

前者はもちろん、後者も軽蔑するようなものじゃない。


これはミームの戦いだ。

マッチョミームに対抗して、ぼくは「あなたは十分頑張っている」ミームを死ぬ気で戦わせる。

もちろんこちらの分は悪いが、ぼくにとってはこれはジャイアンのび太が向かっていくような、勝ち負けにかかわらずしないといけない戦いだ。


努力しないやつを軽蔑するな。

「生まれつきの運の悪かったやつを軽蔑する」と言え。

それならぼくは、何も言わない。



おまけ。

(すっかり慣れてしまった)

*1:もちろん、これは空中に向けての妄想だ。

*2:ぼくは適当な数字をよく使う。本質的でないところにツッコめて思考停止できる親切仕様だ。