あなたは「表現の自由はすべてに優先される、ゾーニングは必要ない」という考えの持ち主だろうか。
そうであれば、「2 Girls 1 Cup」というビデオを検索して、それを最後まで見てほしい。
(閲覧注意の動画なので、信念のある人以外にはお勧めしない)
「2 Girls 1 Cup」というのは、有名なスカトロ動画だ。
我々は普段、そのような動画を目にする機会がない。
なぜだろうか?
それは何よりも、そのような動画を好きな人間が圧倒的少数であるということによる。
ここで思考実験をしてみよう。
ある日突然、人類が変なウィルスに冒されて——あるいは宇宙人に脳を改造されて——理由は何でもいいが、人類の半数がどうしようもないスカトロ好きになってしまったとする。
そうするとどうなるか。
メディアには大量にスカトロ動画があふれ出す。
ウンコを恍惚の表情で食べている表紙の雑誌が店頭に並び出す。
半数というのは大きなマーケットなので、そうなることは目に見えている。
しかし、この状況は「旧人」にとってはたまったものではない。
すぐにゾーニングを求める意見が噴出するだろう。
しばらくして法律が整えられ、スカトロ物はゾーニングされたエリアでしか買えないようになる。
アニメにはなぜかカレーを食べるシーンがやたらと増えたような気がするし、その理由もだいたい皆察しているが、まあその程度はしょうがない。
また別の思考実験。
ある日突然、(略)人類の半数がサメにどうしようもない恐怖を感じるようになってしまったとする。
サメの画像を見るだけでPTSDのような症状が現れる。
もちろん、ジョーズのパッケージなんて論外だ。
そういうわけで、今や世界の半数を占める「新人」たちの力で、サメ物のゾーニングが進められる。
サメ映画を見ようと思うと、「この先には敏感なコンテンツがあります」という画面を通らないといけない。
「旧人」はぶつぶつ言いながらもその状況を受け入れる。
さて、これらの思考実験で、「新人」がそれぞれ一人だったらどうだろうか。
スカトロ好きの一人と、サメにトラウマのある一人。
前者は自分の愛するコンテンツを公共の場で発表したら袋叩きに遭うし、後者はサメの画像が目に入らないようにビクビクしながら生きるしかない。
現状のゾーニングが揺らぐことはない。
ここで言いたいのは、「数は重要だ」ということ。
ゾーニング——というより表現規制一般——は、常に多数派(過半数という意味ではなく、ある程度以上の発言権を持つ集団)同士の調整のためのものであったし、今後もそうであり続けるだろう。
それは善悪や理念というよりも、力学のようなものだ。
表現規制の話になると、宗教的に自分の考えの正しさを信じる人間がわらわら出てくるが、そもそもそんな絶対の正義などは存在しない。
完全に表現規制の廃絶を主張できるのは、「2 Girls 1 Cup」の動画を見ながらカレーを食べられる人間ぐらいだろう。
結局のところ、「スカトロ動画を昼間放送して何が悪いんだ」「サメ映画なんて怖いものをよく公共の場に置いておけるな」的に、自分の快不快を(必要に応じて仲間と連帯しながら)訴えていって、力関係で勝った集団が好きなものを公共に流し、力関係で負けた集団が公共の場で不快なものを目にするという、それだけのことだ。
もちろん、現状だってそうなっているから、テレビにスカトロや性交シーンが出てきたりはしない。
多数派のための表現規制のおかげだ。
表現規制の基準は、これまでにも大きく変わっている。
感性は変わるものだからだ。
例えば、昔「チャタレー事件」で「チャタレイ夫人の恋人」が猥褻だと認定されたのは、当時の多数派にとってそれが猥褻だったからだろう。
昔の人間が愚かだったからではない。
ここでまた思考実験をして、未来では恋愛ドラマでは無修正の性交シーンがテレビに出てくるとしよう。
現代人が未来人に「どうしてあなたの時代の恋愛ドラマには性交シーンが出てこないのですか? あなたの時代にも恋人たちは性交をしていたでしょう」と聞かれたら何と答えるのがいいだろうか。
答えは、「我々の時代の人にとってそれは刺激的すぎるから」となるだろう。
「我々は未来のあなたたちより愚かだから」ではないし、ましてや「我々にとっては表現の自由は重要ではないから」ではない。
ところで、ゾーニングというのは「たかが技術的な問題」でもある。
例えば、人間がすべてARメガネなりARコンタクトなりをつけて生活していて、「性レベル*1」のフィルタを設定することによって、設定したレベル以上の性コンテンツは目に入らないようにできるとしたら、各人が自主的にゾーニングできることになる。
このゾーニングに反対する人はあまりいないだろう。
結局のところ、ゾーニングや表現規制というのは、それぞれ違った感性を持った人間たちが、この基底現実という世界を共有していることから起こる問題だということだ。
もちろん、人類が基底現実を離れられたら問題は自動的に解決するのだが、それまでの短い間は何とかすり合わせをしながら生きるしかない。
感性が違う以上は闘争になることは避けられないとはいえ、最低限、「自分と違う感性を持った人がいる」ということを頭に入れながら、泥臭く妥協点を探していくしかないんじゃないだろうか。
いま多数派の人だって、いつ少数派になるかわからない。
最初の思考実験では、人類の「半分」がスカトロ好きになるという設定だったが、これが「99%」で、あなたが1%の旧人だったら、あなたはどうするだろうか。
たとえ自分が少数派でも、スカトロコンテンツを見ないで生きる権利を求めて必死で戦うんじゃないだろうか?
まあ、それは1%でも仲間がいればの話だが。
もしスカトロ好きになったのがあなた以外の人類全員だったとしたら、どうだろうか。
そういうことを想像しながらゾーニングや表現規制について考えるのも悪くないと思う。
ぼくは「2 Girls 1 Cup」の動画を見ながらカレーを食べられる*2タイプの人間なのだが、岡目八目ということもあるので、この問題について半分部外者*3の立場から書いてみた。
ちなみに、この動画を知ったのは「反共感論」という本に出てきたから。
おすすめ。