「『恣意的』という言葉の誤用が広まっている」という説があります。
文中での登場の仕方が似ているせいか、意図的、作為的、故意、という意味で使われることがある。しかし恣意的には、無作為や定まった意図がないというニュアンスがあり、正しくない。
「恣意的」はしばしば「意図的」と混同され誤用されることの多い語である。「恣意的」であるとは一貫した思想に基づかずその場限りの考えに基づいている点で、明確な目的をもった「意図的」とは区別されるべきである。
例えば、記事を自社の思想に沿うように事実をねじ曲げて書くといった文脈では「意図的」もしくは「故意」を使う。
どうも首をかしげてしまうような主張です。はてなキーワードのほうでは、大辞林から「恣意」の語釈を引用していますが、その一つ目の語義はこうなっています。
(1)その時々の気ままな思いつき。自分勝手な考え。
「会長の―によって方針が左右される」
「その時々の気ままな思いつき」と「自分勝手な考え」の間には多少の開きがありますが、「恣意」はその両者にわたる意味を持っているということです。「記事を自社の思想に沿うように事実をねじ曲げて書く」というのも、「自分勝手な考え」のほうにあたるので、「恣意的」と言えそうに見えます。
もっとも、辞書の定義が言葉の意味を規定するわけではないので、実際の使用例を見てみます。
まず、「日本国語大辞典」にある例文です。
*学生と教養〔1936〕〈鈴木利貞編〉教養としての歴史研究〈大類伸〉「併し現実問題に或る目的を遂行することを急務とする人々は、往々にして歴史を恣意的に利用することを敢へてする」
*浪曼主義〔1950〕〈中野好夫〉「奇怪なまでに恣意的に使用されてきているこの概念内容を」
どちらも、いま典型的に使われる「恣意的」と同じ用法ですね。
少なくとも、日本語で「恣意的」が使われ始めたときには、すでに今と同じ、「好き勝手に」と置き換えられるような意味で使われているわけです。
漢字の意味からしても、「恣」には「ほしいまま」という訓があることからもわかるように「好き勝手」という意味があります。
今度は漢文での使われ方を見てみます。
史記の「亀策列伝」には、次のような一節があります。
…因公行誅,恣意所傷,以破族滅門者,不可勝數。
(公のことにかこつけて私的な怨恨を晴らし、好き勝手に迫害し、それによって一門が滅ぼされたものは数え切れない)
ここでもやはり、「恣意」は「好き勝手」と解釈できます。
このように、「恣意」という言葉はどこまでさかのぼっても「好き勝手」という意味で使われ続けています。
では、なぜこの使い方を「間違っている」と考える人が出てきたのか。
そう思っていろいろ検索しているうちに、次のような 2ch の過去ログが見つかりました。
「恣意的」を「意図的」と同じ意味で使ってる人は低学歴 「恣意的」は「偶然に」という意味ですよ
これで少し見えてきたような気がします。
ここで言われている「偶然に」という意味は、上の大辞林では二つ目の意味です。
(2)物事の関係が偶然的であること。
「言語の―性」
そもそも、「恣意」のこちらの意味はどうやって出てきたのか。
これは比較的明確です。
例文にもあるように、この意味は言語(記号)について使われます。
ソシュールの "arbitraire" という用語に対する訳語として「恣意(的・性)」が採用されたということです。
では、なぜ「恣意(的・性)」が選ばれたのか。
ラルース で "arbitraire" の意味を見てみます。
・Qui résulte d'un libre choix et ne répond à aucune nécessité logique : Classification arbitraire.
(自由な選択の結果によるもので、論理的な必然性に対応しないこと: arbitraire な分類)
・Qui dépend de la volonté, du bon plaisir de quelqu'un et intervient en violation de la loi ou de la justice : Arrestation arbitraire.
(誰かの意志や気まぐれによって、法や正義を犯して介入すること: arbitraire な逮捕)
こうして見ると、もともと漢文や日本語にあった「恣意(的)」は "arbitraire" の二番目の意味に近いものだったので、一番目の意味の訳語としても「恣意(的・性)」を使うことにしたということのようです。
それにしても、日本語の「恣意(的)」に "arbitraire" の「論理的な必然性のない」という意味が加わったからといって、元からある「好き勝手」という意味が消えるわけではありません。
また、そもそも "arbitraire" のほうにも「好き勝手」の意味があるので、「恣意(的)」を "arbitraire" の意味に合わせたとしても、「好き勝手」の意味で使うのが間違いということにはならないはずです。
それなのに、どうしてそれが誤用だという誤解が(一部で)広まっているのかというと、やはり上で挙げた 2ch のスレッドの >>1 のように、「それまで本をろくに読んだこともなかった人がちょっと言語学をかじって、そこで見た『恣意(的・性)』の用法を唯一のものだと思い込んだ」というところから来ているのかもしれません。
ちなみに、ニコニコ大百科の解説を読み直すとこうなっています。
意図的、作為的、故意、という意味で使われることがある。
実態として、「恣意的」という単語は「意図的」という意味での使い方はほとんどされていません。
たとえば「意図的に流行を引き起こす」というところを「恣意的に流行を引き起こす」と言う人がいたら、それは誤用といえるでしょうが、そういう用例はごくわずかです。
大部分は、「恣意的に歪曲する」「恣意的に編集する」といった、「自分勝手な考えで」という本来の意味のもので、もちろん誤用ではありません。報道や出版でも使われています。
ところで、ニコニコのコメント >>25 には、このように書かれています。
俺の中学だか高校だかの教科書でこの言葉を堂々と間違えてた。しかも脚注にも間違った意味が書いてあった。その上その文章はメディアリテラシーについてのものだった。
どうやら言葉の誤用というものは、それを知っていることで優越感にひたれる「優越感ツール」として使われがちなようです*1。
最近も、次のような匿名記事がありました。
「役不足」という言葉を誤用して使った頭の悪そうな芸人も、いたる番組でみるから
年収ウン百万か数千万かしらんが俺よりは遙かにもらっているし(略)
この人は、「役不足」の用法を知っているというだけで「頭の悪そうな芸人」よりも何か優れている気分になっているようです(ところで、この「いたる番組」というのはおかしいですね。「至る所」ならわかりますが)。
でも、その「頭の悪そうな芸人」は、自分のキャラクターを把握して視聴者を楽しませるという「価値」を生み出していて、それによってお金をもらっているわけです。
優越感なんて、持たないですむならそれに越したことはないですが、持つにしても「こういう価値を生み出した」というのが正攻法なのではないでしょうか。
そのショートカットのように言葉のトリビアが使われるというのは、言葉好きからすると残念なものがあります。
*1:教科書で「恣意的」が本当に間違って「意図的」という意味で使われている可能性もありますが、論としては同じことです。