「歳」「憶える」「嗤う」…それっぽい漢字
最近、かっこいい漢字を見かける機会が増えました――というのは、前回の記事で書いた話ですが、今回は「訓読み」の話です。
その中でも、最近特に増えた感のある
- 歳(とし)
- 憶(おぼ)える
- 嗤(わら)う
を取り上げてみたいと思います。
「年」と「歳」
「とし」という言葉には「年齢」という意味があり、「彼のとしは30を越えている」「としを取る」「もうとしだ」のように使いますが、この「とし」を書くのにどの漢字を当てるでしょうか。
年? 歳? 齢?*1
まあ、どれを使ってもいいでしょう。
日本語と中国語は別の言語なので、日本語の言葉にどの中国の文字を当てるかに正解はありません。
しかし最近になって、この「とし」が「歳」と書かれているのを見ることがだんだん多くなってきました。
まあ、確かに「歳」のほうが「年」よりもそれっぽいというのはわかるのですが、そのうち「年」を間違いだなんて思う人が出てくるんじゃないか…と不安になってくるほどです。
そして先日、その不安をツイッターで口にしたところ、案の定と言うべきか次のようなリプライをもらって、大人げなく怒りを爆発させてしまいました。
間違ってるとまでいわないけど戦後こじつけた略字だよねQT @takeda25: 最近、年齢という意味の「とし」を「歳」と書く人が急増した感がある。「年」が間違ってるとか言い出さないといいけど。
怒りのポイントはいくつかあります。
その中でも一番は、
「年齢」という意味で「年」と書くというのはずっと昔からある書き方である
のに、それを否定するようなことを言われたというところです。
2行にわたってしまうのですが、近代デジタルライブラリーの古事記 中巻(明治3年出版のもの)から引いてきましょう(コマ番号14)。
「凡此神倭伊波禮毘古天皇御年壹佰參拾漆歲」
神武天皇は御年(おんとし)137歳で亡くなったということですね。
まさに日本語の書き言葉が始まったそのころから、この「とし」は「年」と書かれていたということです。
こういうことを書くと、たまに「言葉は変わるものなんだから、昔の日本語を出してきたってしょうがない」のようなことを言う人がいますが、とんでもない。
この「とし」を「年」と書くことは日本の歴史を通じて行われてきたことで、鎌倉時代や江戸時代はもちろん、昭和や平成の世にも続いているということはみなさんご存じの通りです。
まさか、「年」を「年齢」の意味で使っている最近の資料を出してこいなんて言う人はいないでしょうね。
そこらにある本(そこらに本があればですが)をめくれば、すぐに出てくるはずですが…。
せっかくなので、リンクという形で貼っておきます。
浦島太郎は、なぜ年をとらなかったか―アインシュタインと遊ぶ (祥伝社新書)
第二は、「戦後こじつけた略字」という言葉を不用意に使っているところです。
これまでに書いたなぜ広まった? 「『訊く』が正しい」という迷信、カッコイイほうの漢字、「本来」の日本語を捏造する人でも、そういう人たちが出てきます。
「訊く」「日蝕」「目を瞠る」などの自分がカッコイイと思うほうの漢字を「正しい」と思い、「聞く」「日食」「目を見張る」などのかっこよくないほうの書き方を「戦後のこじつけ」のように書く人たち。
そういう人たちにはほとほとうんざりしていたところでした。
国字改革についての話は本題ではないので簡単に触れるにとどめますが、戦前は同じ言葉を表すのに複数の書き方があるということはよくありました。
「略奪-掠奪」「骨格-骨骼」「反逆-叛逆」「手帳-手帖」などがそうです。
また有名な「障害-障碍」もそのひとつ*3なのですが、よりにもよって「国リハニュース」という .go.jp ドメインのページでデマが堂々と垂れ流されていて、情けない話です。
念のために言うと、「国字改革について知らない」ことが問題なのではなく、「昔の日本語はかっこよかったのに戦後にワルイヒトたちが日本語をめちゃめちゃにしちゃったんだよね〜」的なフワフワした考えで、知りもしないことを語るというのが問題です。
論語にも「知之為知之、不知為不知、是知也」という言葉があるように、知らないことを知らないと認識するというのが、洋の東西を問わず知的な態度とされるものです。
第三に、統一性の問題があります。
日本語の中で、この「とし」という言葉の使い方は歴史のあるものなので、複合語も多くできています。
「年寄り」「寄る年波」「年上・年下・同い年」「亀の甲より年の功」などです。
見ての通り、これらは「年」という表記が一般的です。
「歳」が唯一の正しい表記だなんてことになっても、今さら「歳寄り」「寄る歳波」なんて書けないですよね。
第四に、そもそも漢字の意味からしても「年」「歳」は大差ないということもあります。
どうして同じような意味の漢字がいくつもあるかというと、それは中国語に同じような意味の言葉がいくつもあるからです。
日本語でも、同じような意味の言葉はいくつもあります。「かかと」と「きびす」、「あす」と「あした」など。
「年」も「歳」も、日本語の「とし」に当てる文字としてはどちらも大差ありません。*4
「歳」が年齢限定だなんていうこともありません。「歳月」「歳末セール」など、「年」と同じ意味の用法は多くあります。漢語的表現では「年々歳々」というものもありますが、これは「年」と「歳」という似たような意味の言葉を重ねたものです。
どちらを使っても同じようなものなので、「歳」を使いたい人は使えばいいと思いますが、「年」を間違ってるとか、戦後のこじつけ(!)だとか言うのはやめてほしいですね。
「覚える」と「憶える」
もうひとつ最近気になっている「それっぽいほうの漢字」は、タイトルにも挙げた「憶える」です。
これも、「覚える」というのが歴史の古い書き方です。
また近代デジタルライブラリーから、今回は金子元臣の枕草子評釋 を引きます(コマ番号82)。
「すべて夜晝(よるひる)心にかゝりて覺ゆるもあるが、げによく覺えず、…」
枕草子の時代から、日本語の「おぼえる」という言葉は「記憶する」という意味を持っています。
清少納言本人がどう書いていたか正確にはわからないのですが(原本が残っているわけではないので)、その写本(を基にした評釈)にこう書かれているということから、この意味で「覚える」と書くのが一定の歴史のある書き方だということがわかります。
「おぼえる」の場合は、漢字との関係が多少複雑になります。
日本語の「おぼえる」は広がりを持った言葉で、ぴったり一致する漢字はないからです。
(そもそも日本語と別言語の中国語に、日本語と一対一で対応する言葉がないというのは当たり前なのですが)
現代語の「おぼえる」の意味を大雑把に分類すると、次のようになるかと思います。
1. 感じる。「違和感をおぼえる」
2. 記憶する。「単語をおぼえる」
これだけ見ると、1 を「覚える」、2 を「憶える」と書くのはいい考えのように思えますね。
しかし、実際はそう簡単な話ではありません。
2 はさらに、次の二つに分けることができます。*5
2-1. 記憶する。「単語をおぼえる」
2-2. (習慣などを)身につける。「酒の味をおぼえる」(酒のよさを知り、飲むようになる)
もちろん、2-2 の意味で「酒の味を憶える」なんて書かれてはたまったものではありません。
ソムリエにでもなるのかと思ってしまいます。
また、「麻雀をおぼえる」のような使い方もありますね。
このように、身になじませておぼえるという意味では、中国語では「学」と言うところです。
しかし、日本語の伝統として学(おぼ)えるなんて書き方はありません。
いくら昔の日本人が中国語(漢文)を崇拝していたといっても、幸か不幸か、日本語の「おぼえる」にわざわざ「学」を当てるほどのケツの穴なめレベルには達していなかったとということでしょう。
そういうわけで、「おぼえる」をかっこよく中国風に書き分けるということは望み薄です。
作家などでは、1 を「覚える」、2-1 を「憶える」、2-2 を「おぼえる」とする人もいます。
無理して書き分けるとしたらそうならざるを得ないのですが、いかにも不自然です。
そもそも、2-1 と 2-2 は日本語では密接につながった意味なのに、漢字(中国語)の理屈で無理やり分けてしまうことになります。
また、「年」と同じように複合語の問題もあります。
「物覚え」「うろ覚え」、またいい言葉ではありませんが「バカのひとつ覚え」というのもありますね。
これらも今さら変えるというわけにもいきません。
私としては、日本語の「おぼえる」の広い意味をカバーしてきた、伝統のある「覚える」を今後も使っていきたいところです。
(ちなみに、「記憶」という言葉があるように中国語では「記」も「憶」も似たような意味で、現代北京語では「記」が使われます。)
「笑う」と「嗤う」
前回も少し触れたのですが、最近頭が痛いのは「あざわらうという意味では『嗤う』が正しい」なんて思い込んでいる子供が出てきたということです。
大人が聞いたら信じられないような話です。「そんなやつおれへんやろ〜」と言われそうですが、これも「訊く」と同じように、そういうクラスタがあるようです。
人をバカにするときに「笑う」というのはだいたいどこでも共通で、英語では laugh at ですし、現代中国語では「笑話*6」と言ったりします。「嘲笑」にも「笑」が含まれていますよね。
古代中国語の「嗤」や「哂」というのは、日本語の「プッ」「クスクス」のような擬音語のようなものです。単独でも使いますが、日本語で「クスクス笑う」と言うように、「嗤笑」や「哂笑」のように言うこともあります。
しかし、「わらう」と言うときに使う本流の言葉は、バカにするときもそうでないときも、古代・現代の中国語を通じて「笑」です。
そういえば、今でも学校で漢文は教えられているはずですよね。
私は「五十歩百歩」というのを習った覚えがあるのですが…。
ちょっと「孟子」を見てみましょう。
棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。」(強調引用者)
(鎧を捨て武器を引きずって逃げる者の中で、百歩逃げて止まった者もいれば、五十歩逃げて止まった者もいる。五十歩逃げた者が百歩逃げた者を笑うとしたら、どうでしょうね)
これは非常に有名な話で、日本語の中でも「五十歩百歩」と言いますが、「五十歩、百歩を笑う」とも言います。
日本語のほうでも、「わらう」に対して普通に使われてきた漢字は、バカにしているかどうかに関係なく「笑う(笑ふ)」です。
また枕草子評釋から(コマ番号110)。
「誰かは見知りて笑ひそしりもせむ」とありますね。
あざけりわらうという意味ですが、使われているのは「笑ふ」です。
欄外には戦前に書かれた口語訳がありますが、そこでももちろん「笑ふ」が使われています。
これだけ伝統のある「笑う」を、ここ数年の流行で「間違っている」ことにしてしまったら、過去の日本人の「物笑い」、「笑いもの」になってしまいますし、何よりも日本語が数年の歴史しか持たない根無し草になってしまいます。
「笑」と「嗤」に書き分け(笑)があるなんて思う人が出てきたのはせいぜいここ数年のことで、それもネットや漫画のごく一部の話です。
そもそもの話として、中国語の擬音語を日本語に持ってきたところで、元の音の感覚がまったく伝わりません。「プッと笑う」「クスクス笑う」の「プッ」や「クスクス」を外国語に持っていっても伝わらないのと同じです。
まあ、昔の日本人にとっては中国はあこがれの国だったので、中国人の言葉は擬音語でもかっこよく思えて「嗤」や「哂」をありがたがって使う人がいたのは無理もないところです。
「嗚呼」なんていうのも、昔の中国人が「オホー」のような声をこう書いていたのを、日本人がかっこいいと思って書き方だけ真似したものです。今の中国人は「哎呀(アイヤー)」と言うので、そのやり方なら「哎呀(ああ)」という書き方になるところですが、幸か不幸か、中国語を神の言語として崇拝する伝統は失われてしまったようです。
そういえば、いまその立場にあるのはアメリカですね。"Oops!" というのがかっこよく聞こえる人もいるんじゃないでしょうか。
「バカにしてわらう」というのも、今さら中国語なんか持ってこないで、英語風にかっこよく「ディライドする」とでも言っておけばいいと思うのですが、それだと軽薄さがあまりにも明らかなので恥ずかしいんでしょうかね。でも、本質的な軽薄さは「嗤」や「哂」でも同じことです。
「笑う」についても古い文献を引きましたが、これも今に至るまで途切れることなく使われています。
身の周りの本(本があれば)をちょっとめくれば、この「笑う」はすぐに出てくるでしょう。
ここで少し、中国文学者の高島俊男先生が書かれた「お言葉ですが…〈4〉」から引用します。
もしだれか、あてる漢字によって別のことばになるのだから使いわけなければならない、などと言うやつがいたら、「アホかおまえは、漢字は日本語のためにあるわけじゃない」と笑ってやればよいのである。毎度申すように、漢字をありがたがるのは無知のあらわれである。英語をありがたがるのも、無論、無知のあらわれである。(強調引用者)
日本語の「文脈」
「漢字ブーム」と言われる昨今ですが(昔からずっと言われている気もしますが)、「コウナゴは小女子と書く」*7といったたぐいのトリビアが多いのが気になります。
コウナゴというのはイカナゴという魚の方言ですが、「小女子」というのはその地方の人が適当に当てた字です。元はニンニクを「人肉」と書くのと大差ないもので、辞書によっては見出しに採用していないものもあります*8。
また、最近は「こだわる」「こじれる」のようなものを「拘る」「拗れる」のように書くことも流行していますが、こういうのは伝統的には「知識」とは言えないものです。
「こだわる」「こじれる」などは言葉自体の歴史も浅く、「拘」や「拗」などを当てるようになったのはごく最近のことなので、言葉と漢字の結び付きは強くありません。
「拘る」「拗れる」と書いても「拘(かかずらわ)る*9」かもしれないし「拗(ねじ)れる」かもしれないのに、「こだわる」「こじれる」専用の漢字のように思って使うというのは IME の弊害ですね。
最近のネットの駄文を読むためにはこういうものの読み方の知識も必要ですが、その点では「『kwsk』と書いてあったら『くわしく』と読み、『かわさき』とは読まない」という知識と大差ありません。(ネットをしていると、どちらの知識も嫌でも身につきますが)
表記と読みの一対一対応を覚えるという機械にもできるようなことよりも、日本語の「文脈」、たとえば漢字は中国語を書くために生まれたものであること、日本語と中国語の世界の切り取り方には「ずれ」があること、日本語を書くのにはさまざまな漢字や仮名の表記が使われてきたことといった知識こそ、今後も受け継いでいくべきものなのではないでしょうか。
ここで本の紹介です。
上で引用した「お言葉ですが…」は、中国文学者の高島俊男先生が文藝春秋に連載された人気エッセイで、日本語の「文脈」に関する先生の豊富な知識に触れることができます。
以前「訊く」関連でも、id:gryphon さんが なぜ高島俊男は「訊く・聞く」などの書き分けを「アホ」とするのか(お言葉ですが…より)という記事で取り上げられています。
言葉を題材にしているというと小難しそうですが、全然そんなことはありません。軽妙洒脱という言葉がピッタリです。
一冊に 50編ほど含まれていますが、どれひとつ取ってもそこらのブログ記事(私のものを含め)なんかすっかりかすんでしまうほどの面白さがあります。
前回紹介した「異体字の世界」のような、トリビア的な知識がコンパクトに詰め込まれたものもいいのですが、こちらのシリーズにはまた違った種類の良さがあります。
暇な時間にふと開いて、偏屈でオッチョコチョイな生身のオヤジの軽口を楽しみながら、言葉という広い世界の一端に触れることができる、そんなエッセイ集です。
私は 4巻まで買いましたが、全11巻+別巻まであるようなので、もうしばらく楽しめそうです。
(この本の中では国字改革に対する批判も出てきます。そのために、上で挙げたデマページに引用されてしまっています。「虎の威を借る狐」のように、何も知らない人が知ったかぶりをするためにこの本を使うのを見ると悲しくなります)
そういえば、今回の件で軽く絶望したのは、くだんのリプライをした人がその後 Yahoo!知恵袋を見に行っていたということです(まあ検索結果に出たのでしょうが)。
そういうのを見ると、「ヤフーの知恵袋の答えを信じないでください そこに知識はありません」と言いたくなりますね。
たとえば仮に Yahoo!知恵袋で「聞くと訊くの違いを教えてください」なんて聞いたら、一知半解の人が「たずねるという意味では『訊く』が正しいです」なんて答えるに決まっています。
(前の記事にはそういうものが出てきます。しっかりした回答もありますが、まあ例外です)
本を紹介するのは、もちろんアフィリエイトという側面もあるのですが、ネットに氾濫している薄っぺらい「それっぽい日本語」に対する耐性をつけてほしいという思いもあります。
ネットでまことしやかに語られるそれっぽい漢字や、IME が出してくるかっこいい漢字に飛びつく前に、まずはこれまで日本人と共にあった、そのままの日本語に目を向けてほしいものです。
*1:「年齢(とし)」のような当て字をする人もいますね。
*2:その後のツイートで「歳と才の話と混同してた」と言われましたが、日本で「歳」の代わりに「才」を使うというのも、少なくとも江戸時代より前からある習慣です。参考: 漢字の現在 第8回 「はたち」を過ぎたら「才」は「歳」?
*3:「障害-障碍」については、「障害」は本当に「障碍」「障礙」の当て字なのか?というページで検証が行われていて、「障害」が戦前から使われていることが示されています。
*4:語源が違うので、「とし」という意味以外での使い方では違いがありますが、この意味では同じようなものだということです。
*5:辞書などではもっと細かく分けます。
*6:「話」がついていますが動詞です。
*7:犯行予告で有名になりました。
*9:「かかずらう」とも言います。