送別会、あるいはその不存在について

たまには、日記のタイトルにふさわしい記事を書いてみようと思う。


送別会というものは、特に好きでも嫌いでもない。

呼ばれたら行く。呼ばれなかったら行かない。

その意義というものを、よくわかっているとは言いがたい。

歓迎会はまだわかりやすい。

職場の場合、新しいメンバーを迎え入れるにあたって、元からのメンバーと新しいメンバーがお互いに知り合うための機会はあったほうがいいだろう。

しかし、送別会はそういうわけでもない。

職場で「新しいアドレスはここです。それじゃまた」でいいんじゃないの、という気もする。


もし自分が、あるメンバーの送別会をするかどうかを決める立場にあったとする。

意義がよくわかっていない以上、それを決めるのは難しい。形式に従うのが安全なので、誰に対してもするだろう。

そういう意味で、送別会を「しない」と決められる人というのは、その意義を我が物にしているんだろうなと思う。

それが、うらやましい。

この世界のネイティブなんだろうな、と。


自分にはどうしても、この世界で「ネイティブじゃない感」がある。

どういうところで喜ぶべきか、どういうところで悲しむべきか。

そういったものを、人間を見ながら学習しているように思う。


喜怒哀楽の中で一番苦手なのは、「どういうところで怒るべきか」というところ。

喜ぶべきところで喜ばないと、生活に不都合がある。

悲しむべきところも同じ。

楽しむべきところもそう。

ただ、「怒る」というところに関しては、それをシミュレートしないことによる罰則があまりない。

怒るべきところで怒らないと、少し変だと思われるかもしれないが、それで人を怒らせるということはない。


自分が他人とやりとりをするにあたって、難しいのが「感情のシミュレーション」。

他人ひとりひとりに対して、彼らがどういうふうに感じているかをシミュレートするということ。

冗談じゃない。

自分ひとりの人間シミュレータだけで、負荷で熱暴走しそうなのに。


特に苦手なのは、「怒る」という感情のシミュレート。

自分用の回路を用意していないから、それを他人用に流用するということができない。


それで自分がある程度よりどころにしているのは、「善・悪」の概念。

世間的な「善・悪」というのは意味不明なところも多いけれど、論理的にわかりやすい形のものなら自分の手にも負える。

「他人の選択肢を増やすことは悪いことじゃない」「他人の選択肢を、同意なしに減らすのはいいことじゃない」といったもの。

その根拠は簡単だ。

A という人が X・Y という選択肢を持っている時、A にとってその状態の「よさ」は MAX(X, Y) だ。

そこに自分が Z という選択肢を増やしたとする。A にとってその状態の「よさ」は、MAX(X, Y, Z) になる。

もちろん、MAX(X, Y, Z) >= MAX(X, Y) だ。

だから、それが A の「よさ」を減らすことはない。

その逆も同じように言える。X, Y, Z の選択肢を X, Y にしたら、それが A の「よさ」を増やすことはない。


そういうふうに、相手にとって「いいこと」をしていれば、感情のシミュレーションまでは踏み込まないですむ。

手抜きだが、この手抜きをしないとシミュレータの負荷で死ぬ。


これで、それなりにはうまくいくのだが、どうしてもうまくいかない場合もある。

特に、自分がある組織にいた感想を書くような場合。


人間についてなら、まだ簡単だ。

人間には人格がある。

自分が誰かのことを嫌だと思ったとしても、それを書いたら相手は傷つくかもしれない。

そう考えると、誰かについて思ったネガティブなことを書かないようにするというのは、納得ができることだ。


組織には人格はない。

だから、自分が組織について思ったことを書いて、それに関する情報を増やすことは、読み手に「それを読むか読まないか」という選択肢が増えるという意味で、悪いことじゃないと思う。


でも、人間社会はそんなに簡単じゃない。

人間は、いろいろなところで「アイデンティティ委譲」を行いながら、集団として生きている。


これは人間の強いところでもある。

アイデンティティ委譲」機能があるからこそ、「国のため」といった考え方もできる。

この機能のある集団と、ない集団が戦ったら、一瞬で前者が勝つだろう。

もちろん、「アイデンティティ委譲」機能を持たない人間にも知能はあるので、相談して力を合わせるといったことはできる。

だが、この機能を持たない人間にとって、集団に貢献する動機は「集団が負けたら自分も死ぬから」といったものなので、「集団のために死ぬ」という発想は出てこない。

集団のために死ねる兵士たちと、何があっても自分が生き残ることを優先する兵士たち。

勝敗は見えている。


人間がそういう生き物なので、組織の構成員は、所属する組織にアイデンティティの一部を置いている。

所属する組織が成功したらうれしい、失敗したらくやしい。

そう考えると、自分が所属する組織が攻撃されたら、それに対して怒るのは自然なことだろう。


また、ネガティブなことを言うことを「攻撃」ととらえるのも、人間にとっては自然なことなんだろう。

人間というのは、好きな対象にはネガティブなことを言わないもののようだ。

何を当たり前のことを、と言われるかもしれないが、自分にとっては、自然にはわからない感覚だ。


ところで、自分がある仕事をすることについて「猫好きな人が、猫を処分する職場で働くようなものだ」と形容する時、それは「攻撃」ではない。

まず、「猫を処分する」ということを、自分は「悪いこと」だとは思っていない。

言葉遊びではなく。


人間を殺すことは悪いことだ。

それは、「善・悪」が人間同士の取り決めである以上、別の人間から「生きる」という選択肢を勝手に奪うことを「悪い」こととするのは自然なことだ。

じゃあ、動物は?

わからない。

猫を殺すのは悪いことなのか?

鶏は? 魚は? 虫は?

こういう、時代によって変わるようなことについても、多くの人間は確固たる信念を持てるように見える。

「猫を殺すのは悪いことだ。」「昔はそうでもなかったよね?」「昔は野蛮で、間違っていたんだ。」

自分には、そういうことはできない。


要するに、「猫好きな人が、猫を処分する職場で働くようなものだ」という言葉で自分が言いたかったのは、「自分には徹底的に合わなかった」というだけのことだ。わかりやすいように、比喩を使っただけ。

でも、そう書くと、いろいろな人間の中でいろいろな感情回路が働いて、最終的に「攻撃」という結果が出力される。

その感情回路の動きは、もちろん自分のシミュレーション能力を遠く超えている。

そう書くことが、人間の基準(自分の、ではなく)で「いいこと」なのか「悪いこと」なのか、それももちろんわからない。


特に言いたいこととか、結論とかはない。

ただ、書きたかっただけ。


最初のほうで、人間の感情をシミュレートしていることを書いた。

かといって、自分にネイティブの感情がないわけじゃない。

何か、自分の理解できないメカニズムで、誰かに嫌われてしまったり、誰かを傷つけてしまったり。

そういう時には、ほのかに「哀しい」という気持ちに包まれる。


これまでずっと続いてきた、「哀しい」という気持ちからできた本に、新たな一ページが加わっても、それはたいしたことじゃない。

今後もずっと続いていくものだし。

ただ、一ページが加わった時には、その一ページ分は、やはり哀しい。