機械翻訳は自動織機ではなくチェーンソーであるという話と、その帰結

先日、機械翻訳と意味という記事を書きましたが、それ以降も新Google翻訳の精度向上はあちこちで話題になっています*1


新Google翻訳を使って3700ワードの技術文書を1時間で翻訳した

Google翻訳の強化でもっとも得するのは翻訳家という妙


共通して述べられているのは、「新Google翻訳の精度が下訳に使えるレベルになった」「新Google翻訳は、翻訳家にとって大きな助けになる」ということです。


さて、この記事を読む人であれば、ラッダイト運動というものについて聞いたことがある人も多いかと思います。

この運動は、機械によって雇用を奪われた手工業者が起こした機械破壊運動なのですが、このときに対象となった機械は、自動織機のような、人手を置き換えるタイプの機械でした。


それに対して、機械翻訳は、人間の能力を拡張(エンハンス)するタイプのものです。

人間の翻訳家を置き換えるものではなく、翻訳家によって使われることで、翻訳家の生産性を何倍にも上げることができることになりそうです。

これは、機械で言うと、自動織機よりもむしろチェーンソーのようなものではないでしょうか。

チェーンソーは作業の効率を上げてくれるものなので、例えば昔の木こりにチェーンソーを渡したとしたら、すごく感謝されそうですよね。


lifehacking.jp のほうの記事には、こんなタイトルの段落があります。

短期的には、英語のスキルを持っている人にとって朗報


まあ確かに、機械翻訳がチェーンソーのようなものであることを考えると、短期的には朗報であることは間違いないでしょうね。

しかし、私はこの「朗報」という言葉に引っかかってしまいました。

(それが、この記事を書くことにした直接のきっかけです)

確かに短期的には朗報かもしれないけれど、それで喜んでいていいのでしょうか。

中期的長期的にはどうなるのでしょうか。


ここで、ちょっと仮想の世界の話を考えてみます。

この世界では、100人の木こりが働いていて、1日10本の木を切って、合計で毎日1000本分の木材を生産しています。

木こりは、木を1本切るごとに1000円をもらい、1日1万円の収入で生活しています。

ある日、この世界の山の洞窟に無料のチェーンソーの山があるということに、ある木こりが気づきます。

その木こりがチェーンソーを持ち帰って木を切ってみたところ、5倍の速さで木が切れて、1/5の時間でその日の仕事が終わってしまいました。

ゆっくり過ごす時間ができた木こりは大喜びです。


——と、ここまでが、上記の記事で述べられているような、短期的な状況ではないでしょうか。


さて、そこから先を少し考えてみます。

無料のチェーンソーの存在はそのうちみんなに知られてしまい、みんながチェーンソーを持つようになりました。

そうすると、効率が5倍になっているので、何人かの木こりは精いっぱいそれを活用しようとして、「私は50本の木を切る仕事を受けられますよ」と言います。

そういう木こりがある程度出てきたところで、残りの木こりは、受けられる仕事がなくなってしまったことに気がつきます。

そうなると生活ができなくなるので、ある木こりが「私なら、木を1本切るのに、1000円ではなく、500円でやりますよ」と言います。


そうこうするうちに、最終的には報酬は1本200円で落ち着き、20人の木こりが、1日50本の木を切って、1日に1万円を稼ぐようになりました。

残りの80人の木こりは?

失業して、ほかの仕事に就くことになりました。


これが、中期的に起こることです。

これは単純化したモデルで、実際は各人間の生産性の違いも大きいと思いますが、翻訳の単価が安くなる生き残れる人が少なくなるという流れはわかるのではないでしょうか。


これだけでは救いがないようですが、さらに長期的に考えると、次のようなことが起こると思われます。

これまでは、みんな小さな家に住んでいたのですが、木が1本1000円から200円になったことによって、同じ予算でもっと大きな家が建てられるようになりました。

みんなが大きな家に住むようになったので、必要な木材の量は2倍にもなり、1日に2000本の木が注文されるようになりました。

今では、40人の木こりが、チェーンソーを使ってそれぞれ1日に50本の木を切っています。


翻訳で言うと、単価が安くなったことによって、それまで翻訳されなかったようなものが翻訳されるようになるということになります。

それでも、その新しく生み出された需要は単価の低下によるものであり、元々の翻訳家数を維持できるほどにはなりません。


さて、繰り返しますが、以上に書いたことは非常に単純化したモデルです。

翻訳家の技量の違いや、機械翻訳にかけられないような機密性のある文書の翻訳など、このモデルから外れるところもあります。*2

また実際には、短期・中期・長期という時間がはっきり分かれているわけではないので、単価の低下と市場の拡大は同時進行で起こる、つまり翻訳家の需要は「一旦底をついてから回復する」というより「じわじわと減り続けて安定する」と考えるほうが自然かもしれません。


いずれにせよ、中・長期的には、新Google翻訳は翻訳家にとっては朗報とはいえない(生き残れる翻訳家の数が限られる)というのが私の考えです。

この中で、どうやって生存戦略を考えていくか。

翻訳家にとっては難しい状況になりそうです。


最後に、宣伝を兼ねて、ロボットの脅威 ―人の仕事がなくなる日からちょっと不吉な引用をします。


だが、ロボットや機械学習アルゴリズムをはじめとする自動化の波が次第に、職に必要なスキルのピラミッドを底辺から蝕んでいる。そして人工知能のアプリケーションが徐々に高スキルの職業まで侵そうとしているため、ピラミッドの頂にある安全な領域すら時間とともに減っていくだろう。

教育と訓練へとさらに投資を行うという従来の解決策は、縮小しつつある上位の領域へ全員を詰め込もうとするものだ。そんなことが可能だと考えるのは、農業の機械化の影響で元の職から追われた農場労働者が、トラクターを運転する職を見つけられると考えるのに似ていると思う。数が計算に入っていないのだ。

*1:ですます調とである調をその時々で適当に使い分けています。

*2:ただ、機密性のある文書の翻訳でも、効率が上がるとなると、「抜け駆け」的にこっそり機械翻訳が使われてしまうということも起こるのではないでしょうか。