善意のひどい訳について

2014/10/14 追記: 補足記事を書きました。なぜ誤訳指摘をしたか


ぼくは、ずっと昔から「ひどい翻訳」というものに憤りを感じてきた。

以前、別の記事に書いたこともある。

統計学を拓いた異才たちのようなひどい翻訳を見るたびに、どうして世の中からはこの手の悲劇がなくならないのかとため息が出る。


この前、またひどい翻訳を目にする機会があった。

C言語でプログラミングする際の覚書


ちょっと原文と比較すると致命的な誤訳がいくつも見つかる、最低クラスの翻訳だ。

やれやれと思いながら、翻訳のひどさを嘆くコメントをはてブに残して、ツイッターに流した。



日常の一コマだ。


ここでちょっといつもと違う流れになったのは、訳者の方からリプライをもらったということ。



そういえば今はネット時代なんだから、誤訳指摘が訳者の目にもとまるというのは十分ありうることだ。


その後リプライを通して、誤訳を 2箇所直してもらった。

普通の流れなら、ここで一件落着、みんなハッピーというところだ。


でも違う、そうじゃない。

誤訳は 2箇所 どころじゃない。

ちゃんと指摘すると、何箇所になるかわからないぐらいあるんだ。


統計学を拓いた異才たちを読んだとき、あまりに翻訳がひどいので原書(おすすめです)を買って読んで、和訳の誤訳箇所に付箋を貼ろうとしたことがある。

しかし、最初の数ページまで見たところで付箋だらけになってしまい、不毛な気持ちになってあきらめた。


でも今回は、量が少ないこともあるので、「誤訳の全指摘」をやってみることにした。

ひどい翻訳というものにはどれだけの誤訳があるものかを示したかったし、自分でも興味があった。


自分でも全文を翻訳してみて、それと比べながら指摘箇所をまとめた。

すると、誤訳は(指摘済みの2箇所のほかに)30箇所あった。


誤訳指摘は別記事にまとめた。

「C言語でプログラミングする際の覚書」の誤訳箇所


ちなみに、ぼくの参考訳はこちら。

C言語プログラミングの覚え書き(改訳)


今回の件で、ひどい翻訳というものについて真剣に考えることになった。

これまで、ひどい翻訳を見ると、無意識のうちにそれを何らかのモラルの欠如によるものだと思っていた。

ろくに英語を勉強していない人が身の程知らずに翻訳しているか、手抜きで翻訳を見直しもしないとか。

だから、ひどい翻訳を見るといつも怒りを感じていた。

しかし、今回の翻訳を出した id:ymotongpooさんは明らかに紳士的な人で、人間としても技術者としてもすばらしい人のようだった。

ツイッターで話してみると真面目に考えて訳されたようで、調べてみると外資系企業で普段から英語を使って仕事をされているらしい。*1

マニュアルの翻訳や書籍の翻訳もされているようだ。


でも、背景はともかく、例の翻訳はあまりにもひどい。

コードの質が、誰が書いたかではなくどう書かれているかで判断されるように、翻訳の質も、誰が訳したかではなくどう訳されているかで判断するべきだと思う。


例の翻訳も、ぼくの翻訳も、さらっと読んだ感じの印象はあまり変わらないかもしれない。

翻訳の質というのは、それほど重要じゃないのかもしれない。

それでもぼくは、誤訳の多い翻訳はよくないと思っている。

理由は主に二つ。

  1. 文章をきちんと読むという習慣を阻害する。
  2. 著作物のアイデンティティの問題。


一つ目の「文章をきちんと読むという習慣を阻害する」というのは、そういう誤訳だらけの文章を読んでいると、一字一句をちゃんと理解して読もうとするとつまずいてしまうからだ。

例えば、元の翻訳の次の部分。

if(goleft)
     p->left=p->right->left;
else
     p->right=p->left->right;

p の複合的な使い方をしているこのコードが何をしているかを考えてみましょう。

ここでの「このコード」はただの例だ。

「何をしているか」を考えてもしょうがない。

でも、「きちんと読む」ということをしようとしてしまうと、ここで引っかかってしまう。

ちなみに、ぼくの翻訳は次のようなものだ。

次のコードで、もし p の代わりに複合式を使っていたらどんな見た目になるか考えてみてください。


二つ目の「著作物のアイデンティティの問題」というのは、「その訳文は、そのタイトルに値するのか?」ということ。

統計学を拓いた異才たち」を読んだ人は、"The Lady Tasting Tea"と同じ本を読んだと言えるのか?

C言語でプログラミングする際の覚書」を読んだ人は、"Notes on Programming in C"を読んだと言えるのか?

どちらも、訳文の意味の通らないところを読んで、読者が「この著者の書く文章はわかりにくいな」と思ってしまうかもしれない。

ひどい翻訳というのは、機械翻訳よりはずっとましかもしれないが、そういう点で危険だ。

機械翻訳なら、原著者がわかりにくいことを書いたとは思わないだろう。


いろいろ悪く書いたけれど、それはあくまで訳文に対するもので、人格攻撃ではない。

翻訳というシステムがもっとうまく動くようになってくれればいいと願っている。

原文を読めばいいと言う人もいるかもしれないが、外国語を読むのには時間がかかる。

ぼくは速いほうだとは自負しているけれど、それでも日本語に比べるとだいぶ遅くなる。


技術翻訳は残念なものが多いが、文芸翻訳は平均して質が高いと感じる。

翻訳で読んだ本には、すばらしいものがいくつもある。

ここではお気に入りを二つ挙げる。



どちらも翻訳でも原文でも読んだけれど、誤訳はほとんどなかった。*2

何百ページもある本をほとんど誤訳なしに訳すのだから、考えてみるとすごいことだ。


技術翻訳も、専業の翻訳者との連携でできたらいいんじゃないかと思う。

専門知識のない翻訳者でも、技術文書の翻訳で助けになれるところは多いはずだ。

例えば、

a naming convention from which np means ``node pointer'' is easily derived.

の "which" が関係代名詞であること、

parsing tables, which encode the grammar of a programming language

の "parsing tables" が動詞-目的語構造ではなく全体でひとつの名詞句であることを読み取るのに、プログラミングの知識は必要ない。

それは英語自体から読み取れる。


英語(外国語)の構文を間違えずに読むというのは、ひとつの能力だ。

翻訳には、分野の専門知識と同じぐらい、外国語を読む能力が必要だ。

(その能力のない)技術者が単独で翻訳をすると、分野の専門知識を何も知らない翻訳者が単独で翻訳するのと同じぐらい悲惨なことになる。

しかし、専門知識のない翻訳者が単独で技術書を翻訳することはあまりないのに、英語(外国語)の読めない技術者が単独で技術書を翻訳するというのは、ずっとよくあることだ。

「翻訳」ということの本質的な困難さが認識されて、後者が前者と同じぐらいひどいことだという認識が広まってほしいと思っている。


ところで、id:ymotongpoo さんが「すごいErlangゆかいに学ぼう!」を翻訳されたときはGitHubのプライベートリポジトリなどでされたそうだ。



この書籍はまだ拝見していないが(そのうち読んでみたい)、多くのレビュアーによって質の高いものになっていることと思う。

こういう体制が普及していけば、例えば専業翻訳家との連携のようなこともやりやすくなって、統計学を拓いた異才たちのような「英語の読めない専門家によるひどい翻訳がそのまま書籍になってしまう」という悲劇が起こらなくなるんじゃないかと期待している。


後記1 この記事の中では「統計学を拓いた異才たち」を非常に悪く言っているが、この訳書はそれに値するものだと思っている。仕事になるのであれば、その数百箇所にのぼるであろう誤訳を全指摘したいところだ。

後記2 「じゃあお前は何を翻訳したんだ」と言われるかもしれない。ぼくはこれまで翻訳はあまりしていない。そのことはこの記事の主張とは関係ないと思うが、いま少しずつ手をつけているものはある。公開できるところまで行ければいいと思う。

*1:エンジニアとして有名な方のようだが、ぼくはアンテナが低いせいか知らなかった。

*2:突き合わせて読んだわけではないけれど、大きな誤訳があれば読めばわかる。