「障害」書き換え説,あるいは戦前の雑さ

いつごろから広まったのか知りませんが、“「障害」は本来「障碍」と書くのに、戦後になって「障害」と書くようになった”という俗説があります。

結論から書きます。

「障害」は戦前からある書き方です。


今はGoogle ブックスという便利なものがあるので、画像を貼っておきます。


法律年鑑 第十三巻(昭和十二年)

別表ニ掲グル身體障害二以上存スルトキハ重キ身體障害ノ該當スル等級ニ依リ障害扶助料ヲ支給スベシ


百聞は一見にしかず、ですよね。

この話はここでおしまいです。

…なのですが、どうしてこの手の俗説が絶えないのか、少し考えてみます。


この考え方の背景には、「社会は間違っている、自分は正しいことを知っている」という中二病的心理があるように思います。

典型的なのが、コラムニストの小田嶋隆さんに絡んでいる次のツイートのようなものです。



「真実を知っている自分」に酔っている様子がにじみ出ていますね。


そもそも、戦前の日本語を知っている人であれば、そのころは「障害」「障碍」「障礙」の三つが使われていたということは常識です。

たとえば、次の朝日新聞の記事があります。

「障害者」か「障碍者」か 「碍(がい)」を常用漢字に追加求め意見

戦前は障害や障碍、障礙(しょうがい)(礙は碍の本字)が妨げの意味で使われた。戦後、碍は当用漢字にも常用漢字にもならず、障害が定着した。


早とちりな人がこの文を読むと“そうか、「障害」は本来「障碍」「障礙」と書くのか”と思ってしまいそうなところですが、ちゃんと一語一語そのまま読むと、「障害や…」という部分があるんですよね。

きちんと読めば、「障害」が昔から使われていたと書かれていることがわかるようになっています。


じゃあ、戦前の「障害」「障碍」「障礙」には使い分けがあったのか。

そんなものはありません*1

たとえば、「兒童心理學序説(大正十三年)」という本から引用します。



6個のうち3個が「障害」で、3個が「障碍」です。

この中で「障害」と「障碍」に使い分けがあるか。

考えるだけ無駄でしょう。


だいたい何でも、人間は昔に遡るほど雑に生きています。

昔の人間は考え方が雑なので、本の校正をする人でさえ、「障害」でも「障碍」でもどっちでもいいやみたいに考えていたりしたわけです。


今でも、ネット上の文章などでは表記が適当なものが多くあります。

たとえば、同じ文章の中で「目」と「眼」を何の基準もなく適当に交ぜていたり。

それと同じように、戦前にも「障害」「障碍」「障礙」を適当に使っている人が多くいたわけです。

「障害」の「害」の字はよくないから「障碍」と書こうとか、平仮名で「障がい」にしようとか言うのは、それは個人の意見なので好きにすればいいと思いますが、浜の真砂のように現れる「『障害』は本来『障碍』と書くのに、戦後になって「障害」と書くようになった」という間違った思い込みだけは何とかしてほしいなぁと思います。


戦前は旧字体・旧仮名遣いだったので、難しい書き方をみんな使いこなしていたかのようなイメージを持っている人もいるかもしれませんが、今より雑な人たちが書いていたので、当然使いこなせなくて間違いだらけでした。

戦後の当用漢字や現代かなづかいについて、日本語をダメにしたというように言いたてる人もいますが、それまでの日本語表記の適当さ・いい加減さが背景にあり、それを整理した結果として現在の日本語があるということは知っておいてほしいと思います。


ところで、この記事も相当雑なので、ツッコみどころはいろいろあると思います。

その中の一番は、「しょうがい」と「しょうがいしゃ」は別の話じゃないか、というものだと思います。

とりあえず適当に、「精神障害者」「視力障害者」「精神障碍者」「視覺障碍者」の例を挙げておきます。

明治大正大阪市史第二巻

最新兵役税論:一名・兵役の神髓:全

民法要義

歐米の特殊教育

(本当は用例数や年代ごとの移り変わりなども考えないといけないところだと思いますが、それは詳しい人に任せます)


この「しょうがい(しゃ)」問題は地雷のようで、過去にもtogetterまとめがあったりします。

誰か「碍」を常用漢字に追加することで生じる社会的不利益について説明してくれよ

障碍者/障害者問題続貂


私個人としては、この議論は不毛そうなのであまり立ち入りたくはないのですが、「書き換えだ」という誤解があまりにも多いので見ていられずに書くことにしました。

こういう「権威を叩く」的な考えは気持ちがいいから、どうしても広まってしまうんでしょうね。


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話は変わるのですが、同じタイプの思い込みとして、古い話ですが“「NHKの紅白で山口百恵は『真っ赤なポルシェ』を『真っ赤なクルマ』と変えて歌わされた」”というものがあるようです。

実際は「普段の歌番組では『真っ赤なクルマ』にされていたが、紅白だけは『ポルシェ』だった」というもので、検証している記事があるのですが、そのコメント欄に

私が小学生か、中学生の頃のある年の紅白で、真っ赤なくるまと歌ってるのをこの目で見て、聴いて、子供ながらに非常に違和感を覚えた記憶があります。

私もこれ見ていましたが、「真っ赤な車」と言っていましたよ。


と書いている人がいたりして、気持ちのいい考えの影響力(記憶改竄力)というのは恐ろしいものだと思わされます。*2

*1:「使い分けがあった」という研究でもあれば取り下げます。

*2:ところで、こういう記事を書くと「お前も人の間違いを指摘するのが気持ちいいから書いてるんだろ」みたいな相対化屋さんが出ますが、問題なのは気持ちのいい考えの結果として間違った信念に至るというところです