@AntiBayes さんとのやりとりについて

先週、私と @ さんとの間にかなり激しい応酬があった。NLP 業界で 私と @ さんの二人をフォローしている人たちにはそれが見えたと思う。また、その影響は今後も残るかもしれない(残らなければそれに越したことはないが、私はあまり楽観していない)。この件について、とりあえず私の立場から説明をする。私の立場からなので、知らず知らずのうちに偏ることは避けられないかもしれないが、意識できる範囲では公平な記述を心がける。

まず、いきさつから。

X さん(この人を含めた 3人をフォローしている人にはわかるだろうが、そうでない人にはわからないように ID は出さない)が、「知り合いが、教員同士の派閥争いが原因で、博士への進学を諦めた」とつぶやいた(ログを確認。文面は変えている)。

それに対して @ さんが、「その人が派閥争いのないお花畑のような職場に行けるといいですね」というメンションをした(削除済み)。

それを見て、私は「あんちべ(=@)さんの発言、気分悪いな」に続き、何か発言をした(削除はしていないが見つけられなかった。見つかったら載せるし、何かを隠そうとは思わないが、残りは忘れている)。

そこから応酬が始まった。私としては、自分がその発言をするに至った自分なりの道徳について説明しようと努力したつもり(あくまでこちらの主観だが、実際に罵るようなことはしていないはず)。

それに対して @ さんは、かなり感情的・攻撃的な口ぶりで反論してきているように、私には見えた。さらに、@ でないつぶやきで、私の言動を彼なりに(私の目には、彼にとって都合のいいように)解釈したものと共に「この人正気か…」と言ったり、私の所属組織の名前を挙げて「○○の研究員がどういうレベルかわかった」というようなつぶやきをしたりした(見つからない。ちなみに私は「研究員」などではない)。

最終的に、彼は私のことをブロックし(私のアカウントでログインすると彼のアカウントが鍵付きに見え、ログアウトすると鍵なしに見える)、対話はそこで終わった。

さて、私がその発言をしたのは、次に述べるような自分なりの道徳規範によるものだ。その後自省を重ね、現バージョンはその時のものから変化している。現バージョンは前回の記事。下で使う、「ミーム」「道徳ミーム」などの用語は、ここで定義してある。

1. まず私は、「その人が派閥争いのないお花畑のような職場に行けるといいですね」という発言を、「どこに行っても派閥争い程度の問題はあるし、そんなことで職場を移るのは愚かなことだ」、さらに「どこに行っても派閥争い程度の問題はあるし、そんなことで職場を移るべきではない」という意図だと解釈した。

2. 私は、「ある人間にとって、あることが『いい』か『悪い』ということに対する評価は、本人がもっとも正確にできる」というミームと、「ある人間 A が、別の人間 B の自由な選択に干渉することは、『悪い』ことである」という道徳ミームを持っていた。

3. 私は、「『悪い』ことには干渉できる」という道徳ミームを持っていた。

ここで私は、「悪い」という言葉は使わず、「ある人間 A が、別の人間 B の自由な判断に干渉する時、第三者 C は A に干渉できる」というように説明した。

この時に、@ さんが反論してきた内容は、私の理解によると次のようなものだ。ちなみに、私の Twitter ID は @

A. 1 の解釈は @ の主観にすぎない。
B. @ が言うようなルール(笑)は聞いたこともないし、聞く価値もない。
C. そのルール(笑)によると、C が A に干渉することも悪いことになり、欠陥がある。
D. そもそも、私の発言は X さんにあてたもので、@ に何か言われる筋合いはない。

この後 @ さんに私がブロックされることになったので、対話のルートはふさがれているが、一応自分なりの反論を載せておく。もちろん反論は歓迎する。

A について。私は、残念ながら主観を超えた「神の目」のようなものを持っていない。だから、外の世界を理解する時は、まずは自分の主観による他はない。それにあたっては、できるだけ偏らないようには心がけ、特定の方向に曲げるようなことはしていない。

これは、まあ当たり前だと思っている。例えば、私が偶然、ある人間が別の人間を苦しめているように見える場面にぶつかったとする。その場合、私は止めようとするだろう。その後話してみると、実際は二人はプロレスごっこをしていただけだと言われ、また苦しめられていると思った人間が心の底から楽しそうな顔をしているのを見たりすれば、私は間違った判断をしたことについては謝るだろう。しかし、「ある人間が別の人間を苦しめている」ということを主観で判断したということは後悔しない。自分にはそれしかできないからだ。

それに、私の主観が正しくないということであれば、発言した @ さん本人は、その発言の意図に関して正しい答えを持っているはずだ。それが与えられれば、私は自分の主観的な判断を喜んで修正しただろうが、それは与えられなかった。

B について。まあ、私が持っている道徳ミームは、私が変異させたものなので、聞いたことがないというのはそうだろう。しかし、私はメタ道徳ミームとして「自分が他人に道徳ミームを適用した時、それが相手に対して未知のものであり説明を求められたら、それに応じる」というものを持っていたため、それを試みた。しかし、@ さんは聞く耳を持たなかった。これから判断するに、@ さんの持つメタ道徳ミームは「聞いたことのない道徳ミームは無視していい」というものなんだろう。まあ率直に言って、あんまり異文化交流に向いたメタ道徳ミームじゃないなと思う。金星人とコミュニケーションする機会でもできたらどうするんだろうか。

C について。私はそういう解釈があるとはまったく考えもしていなかった。そして、その解釈の存在に気づいてからは、そういう意図ではないと示すために、道徳についてで書いたような、「ある道徳規範のある道徳ミームによって明示的に許可されている行動は、同じ道徳規範の道徳ミームを発火させない」という内容を補足した。そうすると @ さんは、私が後から条件を追加したと非難した(私の主観では、口汚く罵った)。しかし、私にとってそれはただの「見落とし」であり、私の道徳規範にはただの「見落とし」に関するものはない。厳密さに欠けるところがあったことについては謝った。

これについては、私の主観としては、「ある道徳規範のある道徳ミームによって明示的に許可されている行動は、同じ道徳規範の道徳ミームを発火させない」というのは、道徳規範には当然組み込まれているような、当たり前のものだと思っている。道徳についてに書いたが、これがないと「目には目を」といった単純なものを道徳規範として運用することすらできない。

D について。そもそも、道徳規範というものが他人同士の行動に干渉しないものだとしたら、それは実効性を持たないだろう。極端な例を挙げると、「人を殺してはいけない」という道徳ミームがあったとしても、それを無視して A という人間が B という人間を殺そうとしている時に、第三者が A に干渉できなければ、そのミームには実効性がない。もちろん今回の事例はもっと軽いものだが、私の干渉もそれに応じて軽いものだったはずだ(本人に見えることを知った上で、発言に対して不快感を表明するというもの)。

さらに言えば、@ さんは Twitter というものを、性質をわかった上で使っているはずだ。Twitter では、@ さんと X さんの会話は、二人をフォローしている人間には見える。もちろん、だからといって何をしてもいいというわけじゃないが、見える会話に対して他人が道徳的に思うところがあったらそれを表明されるぐらいのことは想定できる範囲だろう。

もう一つ言うと、@ さんは、「他人同士の行動に干渉しない」という道徳規範は持っていないはずだ。というのは、@ さんのこのツイート

を @ さんが URL 付きで「担当者が見たらどう感じるかわからないのか、ひどい」というような内容(私の記憶)で晒し上げていた(と私は感じた)のを私は見ている(見つからないが)。まあ、私の道徳規範からすると、担当者が見たらどう感じるかというのは担当者の問題だと思うのだが、@ さんにとっては何らかの道徳規範に違反することだったのだろう。@ さんが、自分で道徳規範に違反すると認識したものを、URL 付きで「ひどい」とコメントを付けて晒し上げるのはよくて、私があんちべさんの発言に対して「気分が悪い」とコメントをつけるのがよくないというのであれば、その理由を知りたいところだ。

私のほうとしても、@ さんに言いたいことはある。

1. 所属組織と関係なしにネットで活動している口論相手の所属組織の名前を挙げるというのは、独り言という形式さえ取れば、@ さんの道徳規範では OK なのか。
2. 「正気か…」等とつぶやいた後で私のことをブロックしているが、@ さんにとって「正気じゃない」かどうかを判断する基準は何なのか。

以上が私の言いたいことだ。

まあ 1 について、「独り言だし関係ないもーん」と言うことはできるだろうが、それをするなら私の中で @ さんは「心の小学生」という認識になるだろう。


追記:@ さんの発言で、この件に関連がありそうに見えたものを引用する。関連があると思ったのは私の主観だが、もしそれが間違っているなら、読む人に私が間抜けに見えるというだけのことだ。