道徳について

人間の行動規範は、次の2つに分けることができる。

1. それを解釈・運用する主体が決まっている行動規範=法律
2. それ以外のもの

1 の「法律」が存在することは明らか。

2 が存在するかどうかは自明ではない。「法律」のみを行動規範とする、つまり法律に違反しない限りは何をやってもいいという考え方で生きることも可能だろう。このことによって、人間を次の2つに分類することができる。

1. 法律のみを行動規範とする人間
2. 法律以外にも行動規範を持つ人間

ここで、2 の分類に入る人間に限って話をする。それらの人間は、定義より法律以外の行動規範を持っている。ここで、法律以外の行動規範を「道徳規範」と定義する。

ここで、道徳規範の範囲について、次のことを考える。

  • 道徳規範と法律はどの程度重なっているのか。

人間の道徳規範を観察すると、例えば「人を殺してはいけない」というものがある。これは法律上の殺人罪とほぼ重なり、法律によって処理される。しかし、「人を傷つけてはいけない」というものは、範囲は傷害罪とほぼ重なるが、現実的には人に殴られた時に傷害罪で殴った人を訴えることはまれだ(どれだけの人が殴られた経験があり、またそのうちどれだけの人が傷害罪としてそれを届け出たことがあるだろうか)。また、「人をだましてはいけない」というものがある。これは、その範囲のごく一部に法律上の詐欺を含む。また他に、「人の恋人を口説いてはいけない」というものがある(皆に共有されているわけではないが)。これには、対応する法律はどこにもない。このようにしてみると、道徳規範と法律の範囲は、重なるところもあるが、重ならないところもある。道徳規範についてここで述べるにあたって、さしあたって法律の存在は考えないことにする。

次に、道徳規範というものの性質について考える。

道徳規範の定義は、「それを持つ人たちが従うべき決まり」とする。しかし、「べき」という表現はあまりに曖昧なので、主語を明確にしよう。まず、道徳規範は定義上、それを解釈・運用する主体が決まっていない。つまり、主体はその道徳規範を持つ人たち自身ということになる。このことを考慮に入れて再定義すると、道徳規範とは「それを持つ人が、自分や他人をそれに従わせるような決まり」となる。

こうしてみると、道徳規範というのものは危険な性質を持っている。A という人間が X という道徳規範を持っていて、それに基づいて B という人に干渉したところ、B は道徳規範 X を持っていないため、A からの干渉を自分の道徳規範 Y に反するものとしてとらえ、泥沼の争いになるということがありうる。しかし、これが実際に起こっていることだろう。

そのような危険性をはらむ道徳規範というものを、人はなぜ持つのか。それは、「ある種の道徳規範は、それを持つことによって、持たない場合よりも平均的に人をよい状態にする」からだろう。これは、「人の物を盗んではいけない」といった基本的な道徳規範を考えても明らかだ。

ここで、道徳規範の共有状況について考える。道徳規範の共有状況はさまざまだ。「人の物を盗んではいけない」などは、よく共有されているもののひとつだろう。「エスカレーター上を歩くべきではない」などは、鉄道会社などの啓発にもかかわらず、ほとんど普及していない。「人の恋人に手を出してはいけない」などは、まあまあ共有されているものだろう。

道徳規範は、現状として、統一されていない。統一されていれば、よくなることも悪くなることもあるだろうが、幸か不幸か、道徳規範の統一ということは予見可能な未来には起こりそうにない。ここでは、道徳規範は統一されていないという現状を前提として話をする。

道徳規範は、時とともに移り変わっている。これも、現状の観察結果として、話の前提としていいだろう。

つまり、道徳規範は統一されないまま変化を続けているわけだ。これはどのような仕組みで動いているのだろうか。

これを考えるには、リチャード・ドーキンスの「ミーム」という概念を使うのがいいだろう。ミームというのは、考え方の遺伝子のようなもので、それぞれの「考え方のかけら=ミーム」は人々の思考の海を漂い、共感を得ればコピーされて増殖し、共感を得られなければ減少・死滅し、また変異を起こしたり影響しあったりする、というものだ。それぞれの道徳規範も、「ミーム」の一種としてみなすことができるだろう。ここで、「ミーム」としてふるまう個別の道徳規範を、「道徳ミーム」と定義することにする。

ミームは、変異するという性質を備えている。道徳ミームも、その点では同じだ。その変異の過程として、次のようなものを考えることができる。

1. 帰納
2. 演繹

1 の帰納というのは、複数のものから共通点をくくり出し、より一般的なものにするという過程だ。子供が「Aちゃんをぶっちゃいけない」「Bちゃんもぶっちゃいけない」という道徳ミームに触れたら、そのうちに「ほかの人をぶっちゃいけない」という道徳ミーム帰納させるだろう。

2 の演繹というのは、これまで考えていなかったものに対して、すでにある規則を適用するというものだ。例えば、コンピュータプログラムというものが出現した時、それに対する道徳は、「物を盗んではいけない」や「著作物を剽窃してはいけない」といった道徳ミームを演繹して適用されただろう。

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ここから、私という個人が持つ道徳ミームについて考える。

私も道徳ミームの仲介者のひとりとして、それに変異を起こすことができる。ここで使うのは、1の「帰納」という過程だ。個別的な道徳ミームを複数持つより、それらの根底にあるものを考え、できるだけ一般的なものにしたほうがいいというのは、上で挙げた子供の例と同じだ。

さて、道徳規範が一般的に持つ性質というのはどのようなものだろうか。それは、「それを持つことによって、持たない場合よりも平均的に人を『いい』状態にする」だろう。持つことによって平均的に人を悪い状態にするようなものはミームとして生存しにくいだろう。その結果、現在存在する多くの道徳ミームは、「平均的に人を『いい』状態にする」という性質を持っている。

そういうわけで、この性質を持つような道徳ミームで、今ある複数の道徳ミームの役割をカバーできるようなものがあれば、それを持つことが望ましい。どのような道徳ミームが考えられるだろうか?

ここで、既存の道徳ミームについて考える。例えば、「ほかの人を叩いてはいけない」=「ほかの人を叩くのは悪いことである」というもの。これは絶対的なものだろうか? そうではない。身近な人に「(ぼく・私)を叩いてみて」と(もっともらしい理由をつけて)頼めば、応じてくれる人はいるだろう。肩叩きのような場合もある。つまり、このミームには隠れた条件があるということだ。隠れ条件を補足すると、「叩かれることを頼んでいない人を叩くのは悪いことである」となる。さて、これが「悪い」とすると、それはなぜだろうか?

ここで、ひとつの前提を置く。

  • ある人間にとって、あることが「いい」か「悪い」ということに対する評価は、本人がもっとも正確にできる。(1)

例えば、自分が人に叩かれることが心の底から好きで、他人もそうだろうと推測し、他人に対して「叩く」という恩恵を施してあげたい、と考える人がいるとする。もちろん、この考え方は間違っている。何が間違っているかというと、「叩かれること」が、他人にとって「いい」ことであるということを勝手に決めているからだ。それは、叩かれる人のほうがより正確に判断できる。

(1)の前提を置くにあたって、子供などの存在は考えていない。ここでは、自分にとって何が「いい」かについて正しい判断力を持っている人間に関してのみ考える。

さて、「叩くことを頼んでいない人を叩くのは悪いことである」という道徳に戻る。これが「悪い」というのはなぜだろうか?

叩かれる人にとっては、干渉されなければ続いていたはずの「叩かれていない状態」から、「叩かれている状態」に強制的に移行させられることになる。どちらが「いい」かについては、もっとも正確に評価できるのは本人だ。本人に選択肢を与えれば、「叩かれていない状態」と「叩かれている状態」のどちらがより「いい」かについて、より正確な判断ができる。一般的にいうと、次のようになる。

  • ある人間 A が、別の人間 B にかかわる行動を取ろうとする時、B に選択肢を与えないことは、与えるよりも「悪い」ことである。(2)

この道徳ミームがあれば、「人を殺してはいけない」「人を傷つけてはいけない」「人のものを盗んではいけない」といった個別的な道徳ミームは必要がない。ある人にとっての「殺された状態」と「殺されていない状態」について、相手に選択肢を提供しないで影響を及ぼすのは、選択肢を与えるのに比べて、相対的に「悪い」と説明できる。

ここで、「叩いてほしい」と頼まれる場合を考える。叩いてほしいと頼む人を A として、頼まれる人を B とする。(1)の前提を使うと、A にとっては「叩かれる」ことは「いい」ことだ。しかし、同じく(1)により、B にとって「叩く」ことと「叩かない」ことのどちらがいいかということは B 本人にしかわからないことになる。しかし、期待値としては次のことが言える。

  • ある人間 A が、別の人間 B のかかわる A and/or B の行動について、B に選択肢を与え、その選択に基づいた行動を A and/or B が取ることは、「いい」ことである。(3)

例えば、A が B に肩たたきを頼む場合を考える。B はもともと、行動の選択肢として「B が何もしない」というものを持っている。ここで A が、B に対して、その選択肢に加えて「B が A の肩を叩く」という選択肢を与えたとする。B が、「B が何もしない」と「B が A の肩を叩く」の間で B にとっていい方を選ぶと、A にとっても B にとっても、「よさ」の期待値は上がる。A の望む選択肢が B の望まないものであれば、いったんは何も起こらないが、A は B の反応を見て、B に与える選択肢を変えることができる。例えば、「B が A の肩を叩き、A が B に 100円を与える」というように。これで B がそれを選ぶことになったら、その結果として A と B がより「いい」状態になる。この場合、「B が A の肩を叩き、A が B に 100円を与える」ことは「いい」ことになる。

逆に、A が B の頭を叩きたいという場合を考えてみる。A は B に対して、「A が何もしない」「A が B の頭を叩く」という選択肢を提示することができる。B が、それらのうちでいい方を選ぶと、A にとっても B にとっても「よさ」の期待値は上がる。A の望む選択肢が B の望まないものであれば、A は同じく B に与える選択肢を変えることができる。例えば、「A が B の頭を叩き、A が B に 1000円を与える」というように。これで B がそれを選ぶことになったら、その結果として、同じく A と B がより「いい」状態になる。この場合、「A が B の頭を叩き、A が B に 1000円を与える」ことは「いい」ことになる。

さて、(2)は(3)の特殊な場合と考えることができる。(3)で「B のかかわる A and/or B の行動」となっている部分が、(2)では「B のかかわる(Aの)行動」となっているというだけだ。

ここまで、選択肢を「広げる」場合について考えた。今度は、選択肢を「狭める」場合を考える。例えば「脅迫」はこれにあたる。次のことが言える。

  • ある人間 A が、別の人間 B が元々持っていた選択肢を減らすことは、「悪い」ことである。(4)

例えば、A が B に対して、「B が A に持っている金を渡し、A は B に何もしない」「B が何もせず、A が B を殺す」の選択肢のみを与えたとする。ここで問題になるのは、B は元々「B は何もせず、B には何も起こらない」という選択肢を持っていたということだ。B にその選択肢が残っていれば B にとって「悪い」ことにはならないのだが、A がそれを取り去ると、B は B がもっとも「いい」と考える選択肢を選べなくなる可能性があり、B にとっての「よさ」の期待値は下がる。このことから(4)が言えることになる。

次に、相手に干渉するのに選択肢を与えることが不可能である場合を考える。例えば、人が今にも車にひかれそうになっているような場合だ。その場合、(1)の原則を使うことはできないので、次善の策として、次の原則を使う。

  • ある人間に干渉する時、選択肢を与えることができない状況では、干渉される人間にとって「いい」であろうと、干渉する人間が推測するようなことをすることは「いい」ことである。(5)

これは危険な規則ではある。正直でない人間 A が、人間 B を突き飛ばしたいと思った時、まず勝手に突き飛ばしておいて、「B に危険が迫っているのが見えた。B を突き飛ばすのが B にとって『いい』ことだと私(A)は推測した」と言われるとなすすべがない。この道徳ミームは「正直でない主張」に対して脆弱だということだ。

しかし、「正直でない主張」に対して脆弱なのは、これに限らない。(2)を使って、A は「B が私(A)に、『突き飛ばしてほしい』と頼んできた」という主張をすることが可能だ。B はもちろん「そんなことは頼んでいない」と言うだろうが、A と B のどちらが「正直」かを決めることは難しい。ここで、次の道徳ミームが必要となる。

  • 人間にとって、正直であろうと努めないことは、「悪い」ことである。(6)

これは他の道徳規範から導出できないので、公理のように設定する。定義上、道徳規範においては解釈・運用主体が決まっていないため、この道徳ミームを組み込むことは不可欠といえる。この道徳ミームを組み込まない道徳規範の体系というものが存在しうるかは興味深いが、ここでは深入りしない。

ここで(5)に戻る。情報伝達でなく、相手に影響を及ぼすことを目的とする言語活動(ほめる・けなす・罵る等)は、(5)で扱うことになる。それは相手にそれを伝えるかどうかについて選択肢を与えられないからだ。例えば、ある人間 A が別の人間 B に「私はあなたに『このクソ野郎』と言いたいのですが、あなたは言われるのと言われないのではどちらがいいですか」と選択肢を提供しようとすると、その時点で「このクソ野郎」という言葉が効力を発揮してしまう。相手に影響を及ぼすことを目的とする言語活動を(5)に当てはめると、次のようになる。

  • ある人間に対して影響を及ぼすことを目的とする言語活動をする時、その人間にとって「いい」であろうと、発言する人間が推測するようなことを言うのは「いい」ことである。(5')

ここからは、情報伝達について、あるべき道徳ミームを考える。なぜ情報伝達を特別扱いするのか。それは、情報はその場では相手に影響を与えないが、相手の内面的な世界理解を変化させ、後になってから相手に影響を及ぼすという特殊性による。

例えば原始社会において、A という人が、ある場所 L の木に果物 X がなっているのを狩りの途中で見たとする。その果物 X は、B が好きなものだと A は知っているが、A は狩りに忙しく、X を取らずに帰ってきた。この時、A が B に対して、「L に X がある」という情報を伝えるのは「いい」ことだろうか? その情報が正しいものであれば、それは「いい」ことだろう。なぜならば、B にとっては、「場所 L に行く」という選択肢と「その場所にとどまる」等の他の選択肢のうち、「場所 L に行く」ということがどれだけ本人にとって「いい」ことであるかについて、より多くの正しい情報があれば、より正しい見積もりができる確率が上がると考えられるからだ。この推測を独立したミームとすると次のようになる。

  • ある選択肢についてのより多くの正しい情報は、その「よさ」について、より正しい見積もりを与える確率を上げる。(7)

これは「道徳ミーム」ではないが、必要となるのでここに挙げる。さて、果物の話に戻る。「L に X がある」というのは「正しい」情報だろうか? 必ずしもそうではない。A が帰ってくる間に、別の人間 C がそれを持ち去っているかもしれないからだ。それでは、A は確実に正しい情報を言うことはできないので、B に対して「いい」ことはできない、ということになるだろうか? そうではない。Aは、「私(A)は、場所 L で 、X があるのを見た」という、確実に正しい情報を B に伝えることができる。B にとって、何の情報もないよりは A のその情報があるほうが、「場所 L に行く」ということの「よさ」について、正しい見積もりができる確率が上がるのは確かだろう。すると、B にとっては、他の選択肢と「場所 L に行く」という選択肢の中で、B がもっとも「いい」と思うものを選べば、その「よさ」の期待値は上がる。次のことが言える。

  • ある人間 A が、ある人間 B の取りうるある選択肢 X について、それに影響を及ぼすと A が推測した正しい情報を B に与えることは、「いい」ことである。(8)

「それに影響を及ぼすと A が推測した」としたのは、A にとってその情報が B に有用かどうかを判断できなければ、A が B にその情報を伝えるべきかどうかわからないからだ。ここでも(6)が必要となる。A が正直でなければ、「B が X を好きだということを自分(A)は知っている」ということを隠して、「B に影響を及ぼすとは思わなかった」として、故意に情報を隠すことが可能になる。

ここまでで主要な道徳ミームについて語ったが、補足として「取り決め」というものについて述べる。例えば、「じゃんけんをして、買ったほうは新聞紙を丸めたもので負けたほうの頭を叩いてもいい。負けたほうは、座布団でそれを防ぐことができる」という「取り決め」を、本人が自分の意志でしたら、その期間中にじゃんけんに負け、かつ座布団で防げなかったら、頭を叩かれるのはしかたがない。この道徳ミームは、人間が協調して行動するために役に立ち、その結果として、協調した人間たちが平均的に「いい」状態になるのを助けてくれるだろう。これは次のように言える。

  • ある取り決めを、自分の意志で他人としたら、それを守るのは「いい」ことである。(9)

ここまで、(3)(5)(8)(9)では「いい」ことについて述べた。ではそれらについて、「悪い」こととはどういうことだろうか? 次のように定義する。

  • ある行動が「いい」ことであると知りながら、それを意図的にしないことは「悪い」ことである。(10)

まず、規範である以上、知らないことに対してはどうしようもない。知っている場合、「いい」行動とそうでない行動で、意識的にそうでないほうを選ぶとしたら、それは「悪い」ことと言っていいだろう。これは、(5)において、「人が今にも車にひかれそうになっている」といった緊急事態の場合は難しい。助けに行くのが「いい」ことだと思っていても怖くてできない、ということもあるだろう。これについては「怖くて『できない』」は「意図的に『しない』」とは違うといえる。(3)については、(10)を適用すると(2)とほぼ等しくなる。(7)においては、例えば A という人間が「ある場所 L' に危険な動物がいるのを見」て、かつ人間 B がその場所 L' に向かおうとしているのを A が知っている場合、それを教えないのは「悪い」ことと言えるだろう。(9)においては、取り決めを破るのは「悪い」ということになる。

さて、「いい」ことや「悪い」ことを定義した次には、それをどう運用するかが問題になる。「『悪い』ことをした人間は殺してもいい」と決めることも考えられる。しかし、道徳ミームが持つべき性質は、「それを持つことによって、持たない場合よりも平均的に人を『いい』状態にする」ということだ。例えば、「『悪い』ことをした人間は殺してもいい」と決めた場合の道徳規範の守られ度合いを X として、「『悪い』ことをした人間は殴ってもいい」と決めた場合のルールの守られ度合いを X' とし、「殺される」ことの本人にとっての平均的な「悪さ」を Y とし、「殴られる」ことの本人にとっての平均的な「悪さ」を Y' とする時、「殴る」よりも「殺す」を選ぶには、X' を X にすることによる、構成員に対する平均的な「よさ」が、道徳規範に違反してしまった時に Y' が Y になるという「悪さ」を上回っていないといけない。だが、これはいずれにせよ数学的に決められるようなものではない。暫定的に、次のようにするしかないだろう。

  • ある人間が「悪い」行動をとったと自分が認識する時には、その行動への抑止効果と相手に対する「悪さ」とのバランスを考え、もっとも適切だと考える程度の干渉をすることができる。(11)

ここでも(6)が重要となる。(6)がなければ、人間 A が人間 B の「悪い」行動を見た時、A がそれに乗じて B を袋叩きにし、「B の行動を抑止するにはそうするしかないと思った」という偽りの主張をすることも可能だ。

ここで注意すべきは、(11)には「干渉」という行動が含まれるということだ。この「干渉」についても道徳ミームが適用されるとすると、(3)と(10)より選択肢を与えない干渉は「悪い」ことになることになってしまう。そう解釈すると、道徳ミームセットは抑止力を失い、効果を発揮することができなくなる。ここで、次のミームが必要となる。

  • ある道徳規範のある道徳ミームによって明示的に許可されている行動は、同じ道徳規範の道徳ミームを発火させない。(12)

これは、道徳規範の運用にあたっては必要となりやすいミームだろう。例えば、「ある人間 A が別の人間 B の眼球をくり抜いた場合、他の人間は B の眼球をくり抜いてよい」というものを「道徳規範」として持つ人間集団を仮に考える(当然、元ネタはハンムラビ法典だが、その運用実態とは独立に、ここでは「道徳規範」として運用されるとする)。この人間集団で、ある人間 C が 別の人間 D の眼球をくり抜いたという状況を考える。ここで、D の家族 D' が、この道徳規範に基づいて C の眼球をくり抜いたとする。この時、C の家族 C' は、「D' が C の眼球をくり抜いた」ということによって、D' の眼球をくり抜くことができるだろうか? できるとすると、この道徳規範は全員が全員の目をくり抜くまで発火しつづけることになる。それを防ぐためには、(12)のミームが必要になる。

さて、ある人間が(6)の意味で「悪い」ことをしている場合、つまり「正直であろうと努め」ない時、それに対する抑止効果を持つような直接的な措置というのは考えにくい。ある人間が「正直であろうと努め」ているかどうかは、究極的には本人にしかわからないことだ。しかし、(6)を運用できない限り、他の道徳ミームはすべて土台を失ってしまう。そこで、次のような仕組みを考える。

  • 人間は、別の人間それぞれに対して、「正直ポイント」という変数を保持し、自分が相手に対して「正直だ」と思ったら増加させ、「正直でない」と思ったら減少させる。この変数は人間同士で教え合う。(13)
  • 人間は、別の人間が持つ「正直ポイント」に応じて、その人間を信用する。(14)

道徳ミーム(6)は広く共有されているものだ。この仕組みは実際に運用されているものだと推測する。

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ここまでの議論をまとめ、自分という個人が持つ道徳ミームセットを定義する。

まず、前提となる一般ミームは次の通り。

  • ある人間にとって、あることが「いい」か「悪い」ということに対する評価は、本人がもっとも正確にできる。(1)
  • ある選択肢についてのより多くの正しい情報は、その「よさ」について、より正しい見積もりを与える確率を上げる。(7)

次に、道徳ミームを有効に機能させるための補助的な道徳ミームは次の通り。

  • 人間にとって、正直であろうと努めないことは、「悪い」ことである。(6)
  • ある道徳規範のある道徳ミームによって明示的に許可されている行動は、同じ道徳規範の道徳ミームを発火させない。(12)
  • ある人間が「悪い」行動をとったと自分が認識する時には、その行動への抑止効果と相手に対する「悪さ」とのバランスを考え、もっとも適切だと考える程度の干渉をすることができる。(11)
  • 人間は、別の人間それぞれに対して、「正直ポイント」という変数を保持し、自分が相手に対して「正直だ」と思ったら増加させ、「正直でない」と思ったら減少させる。この変数は人間同士で教え合う。(13)
  • 人間は、別の人間が持つ「正直ポイント」に応じて、その人間を信用する。(14)

最後に、個別の道徳ミーム

  • ある人間 A が、別の人間 B のかかわる A and/or B の行動について、B に選択肢を与え、その選択に基づいた行動を A and/or B が取ることは、「いい」ことである。(3)
  • ある人間 A が、別の人間 B が元々持っていた選択肢を減らすことは、「悪い」ことである。(4)
  • ある人間に干渉する時、選択肢を与えることができない状況では、干渉される人間にとって「いい」であろうと、干渉する人間が推測するようなことをすることは「いい」ことである。(5)
  • ある人間 A が、ある人間 B の取りうるある選択肢 X について、それに影響を及ぼすと A が推測した正しい情報を B に与えることは、「いい」ことである。(8)
  • ある取り決めを、自分の意志で他人としたら、それを守るのは「いい」ことである。(9)
  • ある行動が「いい」ことであると知りながら、それを意図的にしないことは「悪い」ことである。(10)

これでもまだ十分ではない。なぜかというと、「道徳規範は統一されていない」という現状があるため、他人が自分に対して未知の道徳ミームを適用するということがありえ、また自分が他人に対して適用した道徳ミームがその人にとって未知のものであるということもありえる。そのような「道徳ミームを扱う道徳ミーム」、いわば「メタ道徳ミーム」のようなものが必要になる。

これについては、道徳ミーム同士の接触によって、それらがより「いい」ものになるという反応を促進することを考え、次のようなものを置く。

  • 他人が自分に未知の道徳ミームを適用したら、その道徳ミームについての説明を求める。(15)
  • 自分が他人に道徳ミームを適用した時、それが相手に対して未知のものであり説明を求められたら、それに応じる。(16)

自分の持つ道徳ミーム・メタ道徳ミームは、とりあえず以上。

もっと簡略化できそうな気はするので、今後も更新するかもしれない。

これらでカバーできない部分が出てきたら、その時にまた考える。