志村けんのパラドックス
みんな冷静に計算してほしいけど、東京都の新コロナ感染者数は現在171人。東京から無作為に200人をピックアップしたときに、その中に超有名人の志村けん氏が入ってる確率ってどのくらいだと思う? 現在の感染拡大ペースは我々の想像をはるかに超えてるよ。桁違いの感染者数になってるよ。
— 森岡正博 (@Sukuitohananika) 2020年3月25日
このツイートと、
森岡正博 on Twitter: "みんな冷静に計算してほしいけど、東京都の新コロナ感染者数は現在171人。東京から無作為に200人をピックアップしたときに、その中に超有名人の志村けん氏が入ってる確率ってどのくらいだと思う? 現在の感染拡大ペースは我々の想像をはるかに超えてるよ。桁違いの感染者数になってるよ。"b.hatena.ne.jpブコメがひどい。水曜日のダウンタウンとやらによれば志村けんは日本の知名度ランキング15位。そんな人が感染してるなら、実際の感染者は200人よりはるかに多いのでは、という推論が、そんなに変か?
2020/03/27 01:07
このブコメの話です。
結論から言うと、「例の哲学者の人の推論は間違っていない」「例の哲学者の人の前提が間違っている(と私は考える)」というものです。
以下、荒唐無稽な例をいろいろ挙げながら考えていきます。
ついて来れるかな?
ある日、宇宙人が来て、「一切の活動をやめろ。家にこもって部屋でテレビだけ見ておけ」と日本人に命令したとします*1。
テレビ以外の情報は遮断され、ネットもできません。
100人のテレビの出演者だけは活動を許されています。
次に宇宙人は、「夜中にそれぞれの日本人について10万分の1の確率のくじを引き、当たった人間を殺す」と言います。
そして、次の日。
テレビを見ると志村けんがいません。
夜中の殺戮で殺されたとのことです。
さて、あなたは「この宇宙人は本当のことを言っているんだろうか」と心配にならないでしょうか。
そこに善意の第三者の宇宙人が来て、星を襲う宇宙人のタイプについて教えてくれました。
「こういう行動をする宇宙人にはタイプAとタイプBがいて、タイプAは殺す確率を正直に答えてくれる。タイプBは確率を1/100に偽る。タイプAとタイプBは同数いて、どちらに襲われるかは半々の確率だ」
なるほど、志村けんが殺される前の段階では、日本*2を襲った宇宙人がタイプAである確率は50%、タイプBである確率も50%だったわけです。
では、「芸能人が一人殺された」という情報を知った時点で、この宇宙人がタイプAである確率とタイプBである確率は、どう判断するのがいいでしょうか。
タイプAの場合、芸能人がちょうど一人殺される確率というのは、100 * (1/100000) * (99999/100000) ^ 99 = 0.00099901..と、ほぼ0.001の確率になります。
タイプBの場合、つまり、くじの確率が実際は1/1000であった場合、その確率は、100 * (1/1000) * (999/1000) ^ 99 = 0.09056.. と、約0.09になります。
ここで、同じ条件で宇宙人Aに襲われた星が10万個、宇宙人Bに襲われた星が10万個あるとします。
すると、宇宙人Aに襲われたほうでは100個ぐらいの星で一人の芸能人が殺されていて、宇宙人Bに襲われたほうでは9000個ぐらいの星で一人の芸能人が殺されていることになります。
さて、地球はどちらでしょうか?
こう考えると、宇宙人Aに襲われたという確率は100/9100=1/91、宇宙人Bに襲われたという確率は9000/9100=90/91となります。
ここにまた善意の第三者の宇宙人が来て、「薬Xを使ったらタイプAの宇宙人が100%の確率で死ぬ。薬Yを使ったらタイプBの宇宙人が5%の確率で死ぬ。いま地球を襲っている宇宙人にどちらかひとつだけ使う機会をやる。どちらにする?」と聞いてきたとします。
どちらを選ぶのが賢明でしょうか。
もちろん、薬Yですね。
とまあ、こういう具合に、こういう荒唐無稽な例では「芸能人がやられた」ことが意味を持つわけです。
では、現実とは何が違うのでしょうか。
まずは、身も蓋もない話ですが、「我々はタイプAの宇宙人とタイプBの宇宙人のどちらかに半々の確率で襲われているわけではない」という点です。
これを掘り下げると、「我々は政府が正直に感染者数を伝える確率を高く見積もっている」ということになります。
元々の正直度の見積もりが低い場合について考えてみます。
例えば、中国でまた新たな感染症が流行って、中国政府が感染者の数を1万人と発表したとします。
また同時に、中国で15位の知名度を持つ有名人が感染していることが伝えられたとします。
さて、みなさんは中国政府の発表を信用できるでしょうか?
この場合、元々中国政府の正直度を低く見積もっている人は、「実際は中国政府は嘘をついていて、感染者はもっといるはずだ」と思いやすいでしょう。
ここで、「中国政府を信用していない人はどんな発表でも信じないんじゃないか」と考える人がいるかもしれません。
でも、仮に中国政府が「感染者は7億人だ」と発表していて、また有名人も半分ぐらい感染しているという場合、それは中国政府の発表を疑う根拠になりにくいですよね。
そもそも、有名人と一般人は何が違うのか、というところに遡って考えてみましょう。
重要な違いは、「感染していたとしたら、その事実を隠蔽しにくい」という点*3です。
だから、志村けん(という有名人の一人)が感染していたという事実は、元々政府をあまり信用していない人にとっては、「政府は本当のことを言っている」というシナリオよりも、「政府は嘘を言っていて、感染者数はもっと多いが隠蔽されていて、有名人については隠しきれないので情報が出てきている」というシナリオが説得力を持つ根拠になるのです。
宇宙人の荒唐無稽な例と現実との間には、他にも重要な違いがあります。
そのひとつは、「コロナウイルス感染はランダムなくじではない」という当たり前の事実です。
志村けんさんは夜遊びが好きだということです。
夜遊びというのは、まあ普通に考えると接客する女性との濃厚接触がある場でしょうね。
そういう場では、接客する女性は他のいろいろな男性とも濃厚接触しているわけです。
そういうわけで、志村けんさんのケースは「芸能人の財力で有料ガチャに重課金していた人が超レアキャラを引き当てた」という程度に納得感のあるものではないでしょうか。
というわけで、例の哲学者の人が
- この病気は誰でも平等にかかるものだ
- 政府は感染者数を隠蔽しているかもしれない
- 政府は有名人の感染については隠蔽できないだろう
という前提を持っているのであれば、志村けんさんの感染によって彼が「政府は感染者数を隠蔽しているんだろう」という確信を深めるのは、確率の考え方としては、完全に理にかなったことです。
有効な反論は、それらの前提に対する
- 志村けんは特別に感染確率が高かったんだろう
- 政府が感染者数を隠蔽するなんて無理だろう
- その気になれば有名人の感染も隠蔽できるだろう
といったものです。
「確率の考え方がおかしい」と思った人は反省してください(上から目線)。
考えるきっかけになったのはこの一連のツイートです。
たとえば小惑星衝突直前、地球脱出船に日本人から1人だけ乗船できることになって、厳正なる抽選の結果、1億2千万人から偶然日本一の大富豪が選ばれました、と発表されたら、
— asaokitan (@asaokitan) 2020年3月27日
みんな「厳正なる抽選なんかしてないのでは?」と考えるはずで、「日本一の大富豪が偶然選ばれる確率も、3丁目の田中さんが偶然選ばれる確率も同じだから、なんの不思議もない」という主張はあまり説得力を持てないよね。
— asaokitan (@asaokitan) 2020年3月27日
だから、結局、こういうのはもともとある他の信念次第で、オルタナティブな説明にどのくらい説得力があるかが決まるので、閉じた確率の問題にはなってないんじゃないの、と思う。この理解でいいのかな。
— asaokitan (@asaokitan) 2020年3月27日
「こういうのはもともとある他の信念次第で、オルタナティブな説明にどのくらい説得力があるかが決まる」というのが本質を突いていると思います。
例えば、志村けんさんの家に隕石が落ちた、という話であれば、それがいくらありえなさそうに思えても、まあ偶然でしょ、という話になると思います。
それは、我々が知る宇宙というのが、有名人を選んで隕石が落ちてくるようなものではなく、また隕石が落ちてくる頻度について政府が偽っているということも考えにくいからです。
でも仮に、ホワイトハウス・習近平主席の住居・安倍総理の住居、という順番に隕石が落ちてきたとしたら、宇宙人から電波か何かでメッセージが届いていないか調べてみてもいいかもしれません。
いくら「宇宙人が意図的に隕石を落としている」というシナリオに説得力がなくても、その状況ではそのシナリオの説得力がぐんと上がることになるので。
新型コロナウイルスについては、これまでにも次のような記事を書いていますので、こちらもよろしくお願いします。
1か月前のミラノ
1か月前のイタリアで、"#milanononsiferma" (ミラノは止まらない*1)という動画とタグが流行りました。
www.youtube.com
「奇跡を起こそう、毎日」「なぜなら恐れないから」といったことが書いてあります。
イタリア語が読めなくても雰囲気は伝わるとは思います。
なんとこの動画は、ミラノ市長にもシェアされていました。
その当時のミラノの感染者数は400人ほど。
休校・公的施設閉鎖・営業制限などが行われていたそうです。
#milanononsiferma というハッシュタグがミラノで普及してきてる。「怖い!」で休校、公的施設閉鎖、営業制限を即時したけど、このままじゃ経済がやばいと危惧する人が増えたみたい。ウィルスの恐怖もだけど、経済不況により死につながってしまうというケースもあるからなあ。
— mdrttn (@Ridomint) 2020年2月28日
このビデオは、「コロナなんかに負けずに経済を回していこう」という気持ちで作られたのかもしれません。
しかし、その1か月後のミラノ、ひいてはイタリアがどうなっているかはみなさんご存じの通りです。
そして、現在の東京です。
東京都の新型コロナ感染者数、2月16日くらいから約6週間(41日)で10倍になるペースで増えてるっぽい。 pic.twitter.com/HHnkhZXvoW
— Yohei Kondo (@kondo_yohei) 2020年3月25日
これは対数グラフなので、一直線ということは、10倍・100倍・1000倍というペースで増えているということです。
未来のことは普通はわからないものですが、今この瞬間は、誰でも未来予知者です。
潜伏期間もあるので、1か月後には確実にこの線に沿って感染者が増えているはずです。
そのころには、今よりさらに厳しい対策が取られているでしょう。
しかし、どうしても思わずにはいられません。
「1か月後の対策をいま取ることはできないんだろうか?」と。
イタリアやスペイン・フランスでやっているような極端な対策は、いま実行すると「納得感」が得られないかもしれません。
実際に死体の山が積み上がって初めて、「これほどの惨状ならしょうがないか」と思ってもらえるのかもしれません。
でも、私たちは「タイムテレビ」を持っています。
このままゆるい対策を取り続けた場合の未来は見えています。
何か、いま以上にできることはないんでしょうか。
例えば、現状では帰国者や症状のない濃厚接触者には自宅待機をしてもらっているそうですが、一人あたり何十万円・何百万円をかけても、確実に感染が起こらないホテル的な施設で過ごしてもらうとか。(素人考えですが)
いまここでかける1円は、何百円・何千円にもなって返ってくるんじゃないでしょうか。*2
現状で、本当に命懸けで、「実効再生産数を下げるためなら何でもやる」という対策が取られているんでしょうか。
私にできることはあまりありませんが、ブログ記事を書くだけでも、少しは助けになると思っています。
ネット上の流行は、現実に影響を及ぼします。
"#milanononsiferma" が(おそらくマイナスに)影響を及ぼしたように。
これを読んだ人も、「1か月後の対策をいま取ることはできないんだろうか?」という疑問を、何らかの形で広めていってください。
そうすれば、それはウイルスのように広がるはずです。
次の記事もご覧ください。
「対策か、経済か」ではない
新型コロナウイルスについて。
「コロナ*1対策を取るか、それとも経済を取るか」という二項対立の図式をよく見るので、そうではない、という話。
わかっている人はこれ以上読む必要はない。
まず、コロナ対策としては、次の3つの選択肢がある。
1. 封じ込め
2. 緩和
3. 何もしない
2番目は、イギリスがやろうとして方向転換した。
イギリスでの試算では、「緩和」を選ぶと、25万人が死ぬという。
もちろん、医療システムは完全に崩壊する。
集団としての人間は、その状態に耐えられない。
あなた個人がいくら冷血で「いくら人が死んでも気にすることはない」と思っていたとしても、いざ死体の山ができて火葬が追いつかないような状態になってみると、あなた以外の多くの人間が「これではだめだ」と思うようになり、結局は「封じ込め」に方針転換せざるを得なくなる。
イタリアもそうなっている。
日本も、そういう状況になったら、確実にそうすることになる。
よって、対策の実際の選択肢は次の3つだ。
- 封じ込め
- 緩和→死体の山→封じ込め
- 何もしない→死体の山→封じ込め
当然、最善は1番目だ。
で、「封じ込め」の方法の話。
これはとにかく、「一人の感染者が平均的に感染させる人数(基本再生産数)」が1未満になるまで、対策を厳しくしていく必要がある。
基本再生産数が1を上回っている間は、指数的に感染者が増え続ける。
(集団免疫ができればその限りではないが、それは「死体の山」コースなので選択肢に入らない)
ここで、「基本再生産数が1未満になるまで対策をすると経済がめちゃくちゃになる」とする。
この場合、それを避けて対策を厳しくするのをためらうと、指数的に感染者が増えて死体の山ができてから対策を厳しくすることになり、結局は経済がめちゃくちゃになる。
つまり、基本再生産数が1を上回っている場合、経済に関しての実際の選択肢は次の2つ。
- 感染者が少ないうちに厳しい対策を取り、経済がめちゃくちゃになる
- 感染者が増えて死体の山ができてから厳しい対策を取り、経済がめちゃくちゃになる
これも当然、最善は1番だ。
まとめると、我々には「小さい被害+めちゃくちゃになった経済」か、「死体の山+めちゃくちゃになった経済」という選択肢しかない、ということになる。
これは新型コロナウイルスの性質上しょうがない。
世界はもう「新型コロナウイルス後の世界」になってしまっている。
その事実から目をそらそうとしても、「新型コロナウイルス以前の世界」に戻ることはできない。
もちろん、現時点での対策で基本再生産数が1未満になっているなら、いま以上に厳しくすることはない。
そのままコロナの収束を待つだけだ。
幸いなことに、3月9日の専門家会議によると、「実効再生産数は日によって変動はあるものの概ね1程度で推移してい」たそうだ。
今後はどうなるだろうか?
「韓国とイタリアは検査しすぎて医療崩壊した」とかいう狂気のデマ
ツイッターでこのミームがウィルスのように広まっているので書いておく。
まず、韓国。
韓国が大変なことになったのは、ちょっとマシな人間なら誰でも把握している通り、「感染者が新天地という新興宗教の礼拝で広めたから」。
31人目の確定診断者が感染させた人数はなんと1160人にものぼる。
ちょっと考えてみよう。
「もし韓国の惨状が検査のしすぎが原因だとしたら、適切な数に検査を抑えていたら状況はマシだったのか?」
その仮定のもとで、事態がどういう経過をたどったかを考えてみよう。
まず、31人目の確定診断者は、礼拝に参加して1160人に広める。
(検査とは関係ないので当たり前)
その後、その1160人からどんどん感染が広まっていく。
適切に検査を行っていれば、感染者を隔離するなどして、だんだん収束に近づいていく。
さて、それに対して現状はどうか。
検査をやりすぎたのかもしれないが、結果としてちゃんと収束に近づいている。
韓国はこんな感じ https://t.co/W2cQncRVhj pic.twitter.com/9aU29t1Abf
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2020年3月11日
検査をやりすぎたことによって、余分な医療リソースの消費はあったかもしれないが、それによって爆発的に感染が広まっているとかいうことはない。
韓国の場合、31人目の確定診断者が礼拝に行った時点で、何をどうやってもその後のある程度の感染者の増加は運命づけられていた。
さて、イタリア。
イタリアは手がつけられないような大変なことになっているが、それも「検査のしすぎ」が原因ではない。
ちょっと時間を遡って、2/26時点での検査数・陽性率を見てみる。
(リンク先の下のほう)
Coronavirus Testing Criteria and Numbers by Country - Worldometer
この時点で、イタリアは9462件の検査を行い、陽性率は5.0%だ。
そもそも、「検査のしすぎ」という状況ではない。
地域によります。これはややざっくりな数字ですが、検査陽性率が5−10%の範囲に入っていれば、その地域ではそれなりに妥当な検査数を行っていると判断しています。
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2020年3月11日
じゃあ、イタリアはなぜ大変なのかというと、単純に「患者数が多くなりすぎたから」。
イタリアの状況は大変ですが「検査をしたから大変」だとは必ずしも考えていません。やはり患者数が多くなりすぎたのが最大の問題。検査をしすぎるのもよくないですが、患者の増加に気づかないままでも駄目。
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) 2020年3月11日
今はスペインがこの道をたどりつつある。
一応バカ向けに書いておくと、孫正義氏の思いつきのように「100万人にPCR検査を提供する」とか言うのは、それなりにうまく行っている現状を混乱させるだけの狂気の沙汰だ。
だからといって、逆方向の狂気のデマを広めてもいいということにもならない。
岩田健太郎氏という虎の威を借る形だが、一応釘を刺す意味で書く。
「みんなが不安だからという理由で検査をするのは間違い」だが、どこまで検査するかという意味では、「今の日本以上」が適切だというのが専門家の意見だということを忘れないでほしい。
「女のつらさ」と「イージーモード」——性的資源とコミットメントという観点から
男と女の釣り合い考──「女のつらさ」と「イージーモード」|琥珀色|note
この記事に対する言及です。
(無料のときに読みました)
お金を払ってまで読みたくないという人向けに要約すると「パッとしない女の知り合いがいて、そいつはイケメンに憧れてたんだけど、付き合ってもらうのは無理そうだったから性で誘ってやってもらって喜んでた。女はイージーモードだよな」という感じです。*1
まず、ヒトにおいては、多くの動物の場合と同じく、メスが希少資源だというところはいいでしょうか。
そういえば、「発情するブタを育てたら、ファンを許せるようになった」と言っていたアイドルの人もいましたね。
次に、道徳主義的誤謬と自然主義的誤謬について。
・自然主義的誤謬(Naturalistic fallacy) の例:戦争は人間の習性の一部だと科学的事実が示したのなら、人間はみな戦争に賛成すべきだ
— Ore Chang (EvoPsy) (@selfcomestomine) 2020年2月13日
・道徳主義的誤謬(Moralistic fallacy)の例:戦争は誤りであるので、それは人間の習性であるはずがない
性の話で言うと、自然主義的誤謬というのは「ヒトのオスにメスを追い求める習性があるなら、それを自由に認めるべきだ」で、道徳主義的誤謬は「人間の男女は同じであるべきだ、よって性欲の性差もあるはずがない」とでもなるでしょうか。
言うまでもなくどちらも間違いで、「ヒトのオスには(平均的には)メスよりも強い性欲があるが、他者の権利を尊重するためにそれを抑えなければならない」あたりが妥当なところでしょう。
(ちなみに、昔は「他者」=「他の男性」だったため、他の男の財産である女に手を出すことには厳罰があっても、夫や父親といったよりどころのない女に対してはそうとも限らなかった、だが現代では言うまでもなく「他者」には女も含まれる、といった変化はあります)
さて、オスが求めるのがメスの「性的資源」だとすると、メスが求めるのは「コミットメント」だという話があります。
生存能力の優れたオスが自分と自分の子供に対して安定して(非性)資源を供給してくれることですね。
このあたりは、次の本が面白かったのですが、残念ながら新品はないようです。
ここまでが前置きです。
ここから記事への言及。
現時点でのトップブコメはこれです。
男と女の釣り合い考──「女のつらさ」と「イージーモード」|琥珀色|noteb.hatena.ne.jp「釣り合いが取れなくてもセフレでいいならイケメンとやれるから女は得」って理屈が全然ピンとこないんだけど。文化の違いを感じる
2020/02/14 12:44
これは、メスが求めるのは「コミットメント」である、ということを考えに入れるとスムーズに理解できます。
メスにとっては、いくら相手の遺伝子が優れていても、コミットメントが得られないなら価値がないんですね。
(ここで、「優れたオスから遺伝子をもらいつつ劣った遺伝子を持つオスからコミットメントを提供してもらう」という戦略があるのですが、脇道になるので深入りしません)
わかりやすいように例を出しましょう。
優れた遺伝子を持つオスとしては(最盛期の)レオナルド・ディカプリオあたりがイメージしやすそうです。
さて、「ディカプリオと関係を持つ」ということは、女性にとってうれしい・名誉なことでしょうか。
これは、「状況による」。
コミットメントゼロの状況を考えてみましょう。
女性が、女友達に対して次のような話をしたとします。
「ディカプリオがお忍びで街を散歩してたから、ファンなんです! って声をかけて、いかにもやりたそうな雰囲気を出したんだけど、そうしたら汚い路地裏に引きずり込んでやってくれたんだ。避妊もせず、1分ぐらいで終わって、ズボンをはいてすぐ行っちゃったけど。」
この女性は女友達からうらやましがられるでしょうか?
まあ、普通はうらやましがられないですよね。
といった感じで、女性にとっては「ゼロコミットメントの性」は価値がないわけです。
(筆者は男性なので、女性からの異論があればお待ちしています)
性別を逆にして考えてみます。
優れた遺伝子を持つメスとしては、具体例を挙げると差し障りがありそうなので、一般的に○年に一度の美人と言われるような人をイメージするのがいいかもしれません。
さて、「そういう人と関係を持つ」ということは、男性にとってうれしい・名誉なことでしょうか。
これは、(女性にとって意外かどうかはわかりませんが)そうです。
男性が男友達に対して、上記の話の人物を入れ替えたような話をしたら、普通はうらやましがられるでしょう。
ただでとんでもなく貴重な資源を得られたという話になるので。
そういうわけで、「イケメンとやれる」というのは、普通の女性にとっては、全然いいことではないので、男性にそれをうらやましがられても困る、となるわけです。
(元記事で言及されている女性のように「いい相手とやれるだけでうれしい」という感性を持っていたら、女性のほうがイージーモードということになりますが、同性の共感はあまり得られないでしょう)
そういうわけで、男と女では「同じゲームをプレイしているように見えて、実際は違うゲームをプレイしている」ので、どちらがイージーモードというのは言いにくいのです。
サッカーのフィールドの選手が、キーパーに対して「ボールがよく回ってくるなんてうらやましい、イージーモードだね」と言うようなものじゃないでしょうか。
性別で他者をうらやんだりすることなく、お互いに尊重していきたいものですね。
*1:ひどい要約ですが、この記事の前提として必要最小限の要約として。
誰でもいい「からこそ」弱い相手を狙うという話
「『誰でもよかった』という犯罪者は実際には弱い相手を選んでいる」みたいなやつあるじゃないですか。
あれ、誰でもいい「からこそ」弱い相手を選ぶんですよ、という話です。
ちょっと想像してみましょう。
ある日、宇宙から電波が届いて、あなたに「何でもいいから生き物を殺したい」という強い衝動が生まれたとします。
もう、めっちゃ殺したくて、いても立ってもいられない。
さて、次の二つのうちで選ぶなら、あなたはどうしますか?
1. アリを探して踏み潰す
2. 動物園を探してライオンを殺す
そりゃ、1ですよね。
生き物なら何でもいいので、簡単なほうを殺すに決まっています。
次に、「何でもいいから哺乳類を殺したい」という強い衝動が降ってきたとします。
もう指が震えるぐらい。
さて、次の二つでは、あなたはどちらを選びますか?
1. 震える指で「猫 たまり場」と検索して、野良猫を何とか捕まえて殺して、人目を忍んで埋める
2. 通りすがりの人を包丁で刺し殺す
その後のことを考えたら、できれば1を選びたいところですよね。
そして、あなたは無事に野良猫を殺して、衝動を満たした快感を味わったとします。
無事に社会生活を送れていることに感謝していたら、今度は「誰でもいいから人間を殺したい」という衝動が降ってきてしまいました。
殺しさえすれば、「あの快感」がまた得られる。
あなたはどうしますか?
(良心の呵責から自殺する、とかいうのはここでは考えないことにします)
1. 小さな子供かお年寄りを殺す
2. ヤクザの事務所に行って包丁を振り回す
まあ、1ですよね。
ヤクザの事務所で包丁を振り回しても、「あの快感」が得られる見込みはほとんどないので。
「衝動」と「理性」は排他的なものではない、どころか、「衝動」を満たすために「理性」を使うなんていうことは、普段いくらでもあります。
カレーの匂いを嗅いで、カレーが食べたくていても立ってもいられなくなった人が、ココイチのクーポンを持っていたことを思い出してココイチに行く、なんていうのもそうですよね。
この場合は満たしても問題ない衝動ですが、「衝動を満たす際に理性を働かせた」イコール「その行動の原動力は衝動ではない」ということにはならないわけです。
なんで人間はこんな簡単なことがわからないのかというと、それは「処罰感情」ですよね。
「衝動に負けてこんなことをしてしまった」という言い訳を認めたくない、という。
じゃあどうすればいいかというと、「衝動に負けたからといっても、罪は罪として相応の応報を受けなければならない」と考えればいいわけです。
「哺乳類殺したい衝動」に負けて猫を殺したとして、それを見つかったら、動物愛護法違反で罪に問われます。
ここで、「冷静に殺しやすい動物を選んだということは理性があったわけで、衝動に駆られたというのは嘘だ」なんていう、衝動か理性かという誤った二者択一をする必要はありません。
ところで、「宇宙から電波が届く」とか、荒唐無稽な話でついていけない、という人もいるかもしれません。
さすがにそれはないにしても、次のような話はあります。
マイケル・オフトはバージニア州の教師で、以前に精神医学的にも逸脱した行動の経歴はなかった。40歳の時、その行動は突然変わる。彼はマッサージ店を頻繁に利用し、児童ポルノを集め、義理の娘を虐待し始め、すぐに児童性的虐待で有罪判決を受けた。オフトは小児性愛者のための治療プログラムを選択したが、それでもリハビリセンターのスタッフや他の患者に性的好意を求め続けていた。ある神経科医が脳スキャンを勧めたところ、眼窩前頭皮質の基底部に腫瘍が増殖して、脳の右前頭前野を圧迫していたことがわかった。この腫瘍が切除された後、オフトの感情、行動、性行動は正常なものに戻った。しかし、正常な行動は数ヶ月間までしか続かず、オフトは再び児童ポルノの収集を始めた。神経科医は彼の脳を再びスキャンし、腫瘍がまた成長していたことを発見した。2回目の腫瘍摘出手術をした後、オフトの行動は完全に通常のものになった。
こういう話が読みたければ、引用元のこの本がおすすめです。
宇崎ちゃん問題についての派閥分け
この話題、いろんな論点が混乱していてひどいことになってますよね。
ちょっと整理してみようと思います。
以下の6点について。
法律について
まず、現状として、「わいせつ物頒布等の罪」というのがあり、性表現は完全に自由ではありません。
この点について考えていきます。
性表現は自由だよ派
表現規制に一切反対という人もいるでしょう。
現状の法律(+判例)による規制も間違っている、ゾーニングも一切不要、という立場です。
一例として、「渋谷の大型ディスプレイで無修正AVを流す」というのもありということになります。
この派閥は、「渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派」と分類します。
(こんな感じで、派閥について端的な言葉で言い換えたり言い換えなかったりしていきます)
この派閥の人たちは、今回の案件とは別のレイヤーで話したほうがいいでしょう。
ここから下は、みなさんがこの派閥ではない、つまり法律については受け入れているということを前提とします。
法律の範囲内なら何してもOKだよ派
「わいせつ物頒布等の罪」の条文は曖昧ですが、とりあえず現状ではAV(表)は合法です。
「法律の範囲内なら何してもOK」という場合、一例として、駅のポスターでAVの広告を出してもいいということになります。
この派閥は「駅のポスターでAVの広告を出してもOKだよ派」としておきます。
この派閥の人たちも、現状とは違うという意味で、今回の案件とは別レイヤーでしょう。
法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派
駅のポスターでAVの広告をOKだと感じないのであれば、それは「駅のポスター」という場で「AVの広告」というものが「ふさわしくない」と感じるということになります。
この派閥の人は「法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派」としておきます。
ここから下は、みなさんがこの派閥であることを前提とします。
環境型セクハラ
今回の案件は、「公共空間で環境型セクハラしてるようなもの」という発言が発端となっているため、この論点についても整理しておきます。
ここでは、一般的な意味での環境型セクハラ、つまり職場での性表現について考えます。
環境型セクハラなんてないよ派
ここまで読んでいる人は、「法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派」であるはずですが、「環境型セクハラなんてない」ということは、「職場は性表現を規制されるような場ではない」ということになります。
つまり、「職場でヌードポスターを貼ってもOKだよ派」とします。
さて、この派閥は、2019年の日本では認められていないと思います。
それが間違っているかどうかは置いておいて、現状と違うということで、ここでの議論からは除外します。
職場では法律レベル以上に性的な表現が規制されるよ派
上記を除いた残りです。
「ないよ派」では極端な例としてヌードポスターを挙げましたが、この派閥の基準はひとつには決まらないでしょう。
「性的な表現がされていて」「職場にそれを苦痛に感じる人がいる」のであれば、それは環境型セクハラと言えるでしょうが、例えば完全な球体のオブジェについて「性的に感じて苦痛だからやめてくれ」というのは通りませんが、ヌードポスターなら完全に黒、といった具合にグレーゾーンがあるので、こういった書き方にしています。
ここから下は、みなさんがこの派閥であることを前提とします。
献血が増えたらいいのか
この論点もよく見るので、取り上げておきます。
献血が増えるなら何をやってもいいよ派
ここまで読んでいる人は「法律は大事だよ派」のはずです。
ですので、「献血が増えるなら何をやってもいい」ということは、「献血が増えるなら(法律の範囲内で)何をやってもいい」ということになります。
さて、上で述べたように、AVは法律の範囲内です。
つまり、この派閥の人は「献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派」ということになります。
これが現状にマッチしているかどうかの判断は保留しますが、宇崎ちゃんポスターがダメだという人とこの派閥の人が話すのはレベルが違いすぎて不毛だということは言えるのではないでしょうか。
というわけで、今回の案件の話からは除く(ダメだと言っているわけではなく、「献血が増えるならAVで人を呼んでもいいのかどうか」という場で話す)ことにします。
宇崎ちゃんポスターは性的なのか
今回の案件で中心となる部分です。
宇崎ちゃんの絵はすごく性的だよ派
例の宇崎ちゃんポスターはコミックス3巻の表紙から取られています。
ということは、本屋に陳列されているということになります。
以前ラノベの表紙の巨乳表現が話題になったことがありますが、この絵についても、本屋という公共の場にふさわしくないほど性的だと考える人もいるでしょう。
この派閥の人は、「宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派」とします。
さて、現状としては、宇崎ちゃんのコミックスは本屋で売られています。
この現状が問題だと思う人は、今回の案件ではなく、ラノベ表紙の話題で話したほうがいいと思います。
というわけで、ここから下は、みなさんが「宇崎ちゃんの絵は本屋にあってもいいよ派」であるとします。
宇崎ちゃんポスターは性的じゃないよ派
性的かどうかというのは難しい話ですが、ここまで読んでいるみなさんは「職場では法律レベル以上に性的な表現が規制されるよ派」ですので、職場での許容レベルを例に考えてみます。
例えば、職場の同僚Aが例の宇崎ちゃんポスターを人目につくところに貼っていたとして、同僚Bがそれを苦痛だと訴えたとします。
あなたは同僚A側につくでしょうか。
宇崎ちゃんポスターが完全な球体のオブジェ並みに性的でないと思うのであれば、同僚A側につくことになります。
この派閥の人は「職場で宇崎ちゃんポスターを貼ってもいいよ派」とします。
宇崎ちゃんの絵は本屋には置いてもいいけど職場では許容されない程度に性的だよ派
前二者を除いた残りです。
ここでは一旦、みなさんがこの三つのうちのどの派閥であるかは置いておきます。
献血の場での性表現
今回の案件の始まりとなった「献血の場」での話です。
とりあえず、「献血車の中」や「配布するポスター」の話は置いておいて、ここでは発端となった「献血募集のために公共の場で貼られるポスター」についての話とします。
(「献血車の中」や「配布するポスター」についてはここでの話の対象外とするということであり、話をしてはいけないということではありません)
献血の場での性表現は職場での性表現同様かそれ以上に規制されるべきだよ派
ここまで読んでいるみなさんは「献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派」ですので、「献血募集のために公共の場で貼られるポスターではある程度のレベルの性表現が規制される」ということには同意いただけているはずです。
ここでは、そのレベルが職場での性表現規制レベルと比べてどうかということを考えます。
献血の場での性表現は職場での性表現同様かそれ以上に規制されるべきだという考えの場合、例えば女性の水着写真などもダメということになります。(職場で女性の水着写真がダメであるとして。私はそうだと考えています)
この派閥の人は、「献血の場で女性の水着写真を使うのもダメだよ派」としておきます。
ここでは、みなさんがこの派閥かどうかは特に前提としません。
国ごとの性表現規制
今回の件は、アメリカ人男性のツイートが発端でした。
日赤「宇崎ちゃん」献血PRポスターは"過度に性的”か 騒動に火をつけた米国人男性に聞いてみた | 文春オンライン
この件にも、国ごとの性表現規制の違いが絡んでいるのかもしれません。
まとめ
ここまでの話をまとめた図を示します。
─┬ 渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派(除外)
├駅のポスターでAVの広告を出してもOKだよ派(除外)
└法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派
─┬職場でヌードポスターを貼ってもいいよ派(除外)
└職場では法律レベル以上に性的な表現が制限されるよ派
─┬献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派(除外)
└献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派
─┬宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派(除外)
├職場で宇崎ちゃんポスターを貼ってもいいよ派
└宇崎ちゃんの絵は本屋には置いてもいいけど職場では許容されない程度に性的だよ派
─┬献血の場で女性の水着写真を使うのもダメだよ派
├献血の場でデンキ街の本屋さん13巻のポスターを使ってもいいよ派
└献血の場でのラインは水着写真とデンキ街の本屋さん13巻の間のどこかにあるよ派
─┬日本と性表現規制レベルが違う国は間違っているよ派
└性表現規制は国情に合わせていろいろであっていいよ派
(なお、ここで取り上げていない論点として、性的特徴の強調といったものがありますが、それは「ふさわしさ」に関する議論として、ここでは深入りしていません。それについては、『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター問題を考える - 紙屋研究所が参考になるかと思います)
この話をするみなさんは、「自分はこの派閥だよ」と書くというのはいかがでしょうか。
まず、議論から除外した派閥は以下のようになります。
- 渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派
- 駅のポスターでAVの広告を出してもOKだよ派
- 職場でヌードポスターを貼ってもいいよ派
- 献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派
- 宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派
これらの派閥は、宇崎ちゃんポスター案件で話すのには適当でない(それぞれ別の場で話すのがいい)のではないでしょうか。
それ以外の派閥は、前提として「法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派」「献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派」、「宇崎ちゃんの絵は本屋にあってもいいよ派」であるという前提で、「宇崎ちゃんについて」「献血の場でのライン」についてそれぞれ意見が分かれるということになります。(「国ごとの性表現規制」については、ちょっと置いておきます)
例えば、「私は職場で宇崎ちゃんポスターを貼ってもいいよ派・献血の場でデンキ街の本屋さん13巻のポスターを使ってもいいよ派だから今回のポスターを問題と感じない」、または「私は宇崎ちゃんの絵は本屋には置いてもいいけど職場では許容されない程度に性的だよ派・献血の場でのラインは水着写真とデンキ街の本屋さん13巻の間のどこかにあるよ派で、そして私は宇崎ちゃんポスターはそのラインを超えていると思う」といった具合です。
もちろん、派閥を分けたからといって問題が解決されるわけではありませんが、話し合い(またはその断念)のためのスタート地点にはなるのではないでしょうか。
例えば、「渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派」と「宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派」が直接対話しても得られるものは少ないでしょう。
私の狙いは、そういう不毛なすれ違いを防ぎたいというものです。
最後に、「国ごとの性表現規制」について。
ここで「日本と性表現規制レベルが違う国は間違っているよ派」を選ぶ人はある意味楽なのですが、「性表現規制は国情に合わせていろいろであっていいよ派」を選ぶ人は、「宇崎ちゃんポスターについて自分と反対の立場にある人も日本の国情の一部を構成している」ということを念頭に置く必要があると思います。
みなさんの立場はいかがでしょうか。
私の立場
さて、こういう文を書くからには、自分の立場を表明することが求められるのではないかと思います。
しかし、私自身は不快な表現というものが一切ないため、この問題については半分しか当事者ではありません。
そのあたりについては、表現規制についての思考実験について詳しく書いたので、そちらを参考にしてください。