宇崎ちゃん問題についての派閥分け

この話題、いろんな論点が混乱していてひどいことになってますよね。

ちょっと整理してみようと思います。

以下の6点について。

  • 法律について
  • 環境型セクハラ
  • 献血が増えたらいいのか
  • 宇崎ちゃんについて
  • 献血の場でのライン
  • 国ごとの性表現規制

法律について

まず、現状として、「わいせつ物頒布等の罪」というのがあり、性表現は完全に自由ではありません。

この点について考えていきます。

性表現は自由だよ派

表現規制に一切反対という人もいるでしょう。

現状の法律(+判例)による規制も間違っている、ゾーニングも一切不要、という立場です。

一例として、「渋谷の大型ディスプレイで無修正AVを流す」というのもありということになります。

この派閥は、「渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派」と分類します。

(こんな感じで、派閥について端的な言葉で言い換えたり言い換えなかったりしていきます)

この派閥の人たちは、今回の案件とは別のレイヤーで話したほうがいいでしょう。

ここから下は、みなさんがこの派閥ではない、つまり法律については受け入れているということを前提とします。

法律の範囲内なら何してもOKだよ派

「わいせつ物頒布等の罪」の条文は曖昧ですが、とりあえず現状ではAV(表)は合法です。

「法律の範囲内なら何してもOK」という場合、一例として、駅のポスターでAVの広告を出してもいいということになります。

この派閥は「駅のポスターでAVの広告を出してもOKだよ派」としておきます。

この派閥の人たちも、現状とは違うという意味で、今回の案件とは別レイヤーでしょう。

法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派

駅のポスターでAVの広告をOKだと感じないのであれば、それは「駅のポスター」という場で「AVの広告」というものが「ふさわしくない」と感じるということになります。

この派閥の人は「法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派」としておきます。

ここから下は、みなさんがこの派閥であることを前提とします。

環境型セクハラ

今回の案件は、「公共空間で環境型セクハラしてるようなもの」という発言が発端となっているため、この論点についても整理しておきます。

ここでは、一般的な意味での環境型セクハラ、つまり職場での性表現について考えます。

環境型セクハラなんてないよ派

ここまで読んでいる人は、「法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派」であるはずですが、「環境型セクハラなんてない」ということは、「職場は性表現を規制されるような場ではない」ということになります。

つまり、「職場でヌードポスターを貼ってもOKだよ派」とします。

さて、この派閥は、2019年の日本では認められていないと思います。

それが間違っているかどうかは置いておいて、現状と違うということで、ここでの議論からは除外します。

職場では法律レベル以上に性的な表現が規制されるよ派

上記を除いた残りです。

「ないよ派」では極端な例としてヌードポスターを挙げましたが、この派閥の基準はひとつには決まらないでしょう。

「性的な表現がされていて」「職場にそれを苦痛に感じる人がいる」のであれば、それは環境型セクハラと言えるでしょうが、例えば完全な球体のオブジェについて「性的に感じて苦痛だからやめてくれ」というのは通りませんが、ヌードポスターなら完全に黒、といった具合にグレーゾーンがあるので、こういった書き方にしています。

ここから下は、みなさんがこの派閥であることを前提とします。

献血が増えたらいいのか

この論点もよく見るので、取り上げておきます。

献血が増えるなら何をやってもいいよ派

ここまで読んでいる人は「法律は大事だよ派」のはずです。

ですので、「献血が増えるなら何をやってもいい」ということは、「献血が増えるなら(法律の範囲内で)何をやってもいい」ということになります。

さて、上で述べたように、AVは法律の範囲内です。

つまり、この派閥の人は「献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派」ということになります。

これが現状にマッチしているかどうかの判断は保留しますが、宇崎ちゃんポスターがダメだという人とこの派閥の人が話すのはレベルが違いすぎて不毛だということは言えるのではないでしょうか。

というわけで、今回の案件の話からは除く(ダメだと言っているわけではなく、「献血が増えるならAVで人を呼んでもいいのかどうか」という場で話す)ことにします。

献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派

ここまで読んでいる人は「法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派」でもあります。

献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派」でないのであれば、献血の場というのは、そういう場のひとつであると言えるでしょう。

というわけで、「献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派」を除いた残りは「献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派」とします。

(ただし、想定レベルについては人それぞれでしょう。この点については後でまた述べます)

ここから下は、みなさんがこの派閥であることを前提とします。

宇崎ちゃんポスターは性的なのか

今回の案件で中心となる部分です。

宇崎ちゃんの絵はすごく性的だよ派

例の宇崎ちゃんポスターはコミックス3巻の表紙から取られています。

ということは、本屋に陳列されているということになります。

以前ラノベの表紙の巨乳表現が話題になったことがありますが、この絵についても、本屋という公共の場にふさわしくないほど性的だと考える人もいるでしょう。

この派閥の人は、「宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派」とします。

さて、現状としては、宇崎ちゃんのコミックスは本屋で売られています。

この現状が問題だと思う人は、今回の案件ではなく、ラノベ表紙の話題で話したほうがいいと思います。

というわけで、ここから下は、みなさんが「宇崎ちゃんの絵は本屋にあってもいいよ派」であるとします。

宇崎ちゃんポスターは性的じゃないよ派

性的かどうかというのは難しい話ですが、ここまで読んでいるみなさんは「職場では法律レベル以上に性的な表現が規制されるよ派」ですので、職場での許容レベルを例に考えてみます。

例えば、職場の同僚Aが例の宇崎ちゃんポスターを人目につくところに貼っていたとして、同僚Bがそれを苦痛だと訴えたとします。

あなたは同僚A側につくでしょうか。

宇崎ちゃんポスターが完全な球体のオブジェ並みに性的でないと思うのであれば、同僚A側につくことになります。

この派閥の人は「職場で宇崎ちゃんポスターを貼ってもいいよ派」とします。

宇崎ちゃんの絵は本屋には置いてもいいけど職場では許容されない程度に性的だよ派

前二者を除いた残りです。

ここでは一旦、みなさんがこの三つのうちのどの派閥であるかは置いておきます。

献血の場での性表現

今回の案件の始まりとなった「献血の場」での話です。

とりあえず、「献血車の中」や「配布するポスター」の話は置いておいて、ここでは発端となった「献血募集のために公共の場で貼られるポスター」についての話とします。

(「献血車の中」や「配布するポスター」についてはここでの話の対象外とするということであり、話をしてはいけないということではありません)

献血の場での性表現は職場での性表現同様かそれ以上に規制されるべきだよ派

ここまで読んでいるみなさんは「献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派」ですので、「献血募集のために公共の場で貼られるポスターではある程度のレベルの性表現が規制される」ということには同意いただけているはずです。

ここでは、そのレベルが職場での性表現規制レベルと比べてどうかということを考えます。

献血の場での性表現は職場での性表現同様かそれ以上に規制されるべきだという考えの場合、例えば女性の水着写真などもダメということになります。(職場で女性の水着写真がダメであるとして。私はそうだと考えています)

この派閥の人は、「献血の場で女性の水着写真を使うのもダメだよ派」としておきます。

ここでは、みなさんがこの派閥かどうかは特に前提としません。

献血の場での性表現は本屋での漫画の表紙並みかそれ以上にゆるくていいよ派

職場に引き続き、今度は本屋での規制レベルとの比較をしてみます。

本屋での漫画の表紙には、私の感覚では、宇崎ちゃん以上にエロいものがあるように見えます。(もちろん、人によって判断が分かれると思いますが)

例えば、「デンキ街の本屋さん 13巻」などはどうでしょうか。



献血の場での性表現は本屋での漫画の表紙並みかそれ以上にゆるくていいという人は、「献血の場でデンキ街の本屋さん13巻のポスターを使ってもいいよ派」としておきます。

(どう使うかについてですが、宇崎ちゃん同様、適当なセリフを考えられるんじゃないでしょうか)

献血の場での性表現は職場よりはゆるく本屋での漫画の表紙より厳しいレベルがいいよ派

前二者を取り除いて論理的に残るものです。

献血の場でのラインは水着写真とデンキ街の本屋さん13巻の間のどこかにあるよ派」としておきます。

国ごとの性表現規制

今回の件は、アメリカ人男性のツイートが発端でした。

日赤「宇崎ちゃん」献血PRポスターは"過度に性的”か 騒動に火をつけた米国人男性に聞いてみた | 文春オンライン

この件にも、国ごとの性表現規制の違いが絡んでいるのかもしれません。

日本と性表現規制レベルが違う国は間違っているよ派

日本で問題ない漫画が、イスラム圏や韓国などで修正されているのを見た方もいるでしょう。

さて、そういう国は「間違っている」のでしょうか?

そういう考え方もあると思います。

そういう人は、そのまま「日本と性表現規制レベルが違う国は間違っているよ派」としておきます。

今回の件を皮肉ってブルカを着せた絵を描いたりしている人は、この派閥なのかもしれません。

表現規制は各国の国情に合わせていろいろであっていいよ派

規制が厳しい国を「間違っている」としない場合、「国情による」ということでいいですよね。

この派閥の人は、「表現規制は各国の国情に合わせていろいろであっていいよ派」とします。

まとめ

ここまでの話をまとめた図を示します。


─┬ 渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派(除外)
 ├駅のポスターでAVの広告を出してもOKだよ派(除外)
 └法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派

─┬職場でヌードポスターを貼ってもいいよ派(除外)
 └職場では法律レベル以上に性的な表現が制限されるよ派

─┬献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派(除外)
 └献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派

─┬宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派(除外)
 ├職場で宇崎ちゃんポスターを貼ってもいいよ派
 └宇崎ちゃんの絵は本屋には置いてもいいけど職場では許容されない程度に性的だよ派

─┬献血の場で女性の水着写真を使うのもダメだよ派
 ├献血の場でデンキ街の本屋さん13巻のポスターを使ってもいいよ派
 └献血の場でのラインは水着写真とデンキ街の本屋さん13巻の間のどこかにあるよ派

─┬日本と性表現規制レベルが違う国は間違っているよ派
 └性表現規制は国情に合わせていろいろであっていいよ派


(なお、ここで取り上げていない論点として、性的特徴の強調といったものがありますが、それは「ふさわしさ」に関する議論として、ここでは深入りしていません。それについては、『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター問題を考える - 紙屋研究所が参考になるかと思います)

この話をするみなさんは、「自分はこの派閥だよ」と書くというのはいかがでしょうか。

まず、議論から除外した派閥は以下のようになります。

  • 渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派
  • 駅のポスターでAVの広告を出してもOKだよ派
  • 職場でヌードポスターを貼ってもいいよ派
  • 献血が増えるならAVで人を呼んでもいいよ派
  • 宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派

これらの派閥は、宇崎ちゃんポスター案件で話すのには適当でない(それぞれ別の場で話すのがいい)のではないでしょうか。

それ以外の派閥は、前提として「法律の範囲内でも場によってふさわしいものがあったりなかったりするよ派」「献血の場にはふさわしいものがあったりなかったりするよ派」、「宇崎ちゃんの絵は本屋にあってもいいよ派」であるという前提で、「宇崎ちゃんについて」「献血の場でのライン」についてそれぞれ意見が分かれるということになります。(「国ごとの性表現規制」については、ちょっと置いておきます)

例えば、「私は職場で宇崎ちゃんポスターを貼ってもいいよ派・献血の場でデンキ街の本屋さん13巻のポスターを使ってもいいよ派だから今回のポスターを問題と感じない」、または「私は宇崎ちゃんの絵は本屋には置いてもいいけど職場では許容されない程度に性的だよ派・献血の場でのラインは水着写真とデンキ街の本屋さん13巻の間のどこかにあるよ派で、そして私は宇崎ちゃんポスターはそのラインを超えていると思う」といった具合です。

もちろん、派閥を分けたからといって問題が解決されるわけではありませんが、話し合い(またはその断念)のためのスタート地点にはなるのではないでしょうか。

例えば、「渋谷の大型ディスプレイで無修正AV流してもいいよ派」と「宇崎ちゃんを置ける現状の本屋は間違っているよ派」が直接対話しても得られるものは少ないでしょう。

私の狙いは、そういう不毛なすれ違いを防ぎたいというものです。

最後に、「国ごとの性表現規制」について。

ここで「日本と性表現規制レベルが違う国は間違っているよ派」を選ぶ人はある意味楽なのですが、「性表現規制は国情に合わせていろいろであっていいよ派」を選ぶ人は、「宇崎ちゃんポスターについて自分と反対の立場にある人も日本の国情の一部を構成している」ということを念頭に置く必要があると思います。

みなさんの立場はいかがでしょうか。

私の立場

さて、こういう文を書くからには、自分の立場を表明することが求められるのではないかと思います。

しかし、私自身は不快な表現というものが一切ないため、この問題については半分しか当事者ではありません。

そのあたりについては、表現規制についての思考実験について詳しく書いたので、そちらを参考にしてください。

はてなーはお願いだから自閉症についての理解を深めてくれ

この記事を読んだ。

 

【追記あり】僕は異常だ


とにかくブコメがひどい。

中二病だろ」の声一色*1だ。


例の記事を読んで、ぼくとしては「あー」という感じだった。

人間エミュレーションじゃん、と。


ぼくの人間関係には自閉傾向の人が多い。

ASDの診断を受けた人もいるし、自閉グレーだと言われた人、PDD(広汎性発達障害)と言われた人もいる。

そういう人間関係の中でよく使われる概念が「人間エミュレーション」だ。


ぼくは人を「自閉傾向のある人」と「それ以外」に分けていて、脳内やツイッターではそれらを「我々」「人間」と呼んでいる(これも、読む人によっては中二病だろう)。

そして、「我々」はそのままでは多数派の「人間」とうまくやっていけないので、エミュレータを動かしてそれで「人間」のふりをしている… というのが、「我々」の多く*2の世界観だ。


さて、元記事の人にかける言葉としては、「ASDについて調べてくれ。お前はASDとしては普通だ。」ということになるだろう(もちろん、素人のぼくがネット越しに勝手に診断するわけにはいかないので、診断を受けるきっかけになってくれたらと思う)。


それよりも、本題はブコメだ。

なぜこんなにも「中二病だろ」という声があふれるのか?


ひとつは、「はてなにはそういう傾向がありつつ『自分は普通だ』という自己認識でやっていっている人間が多い」ということがあるんじゃないだろうか。

人は(「我々」も「人間」も)「他者はだいたい自分と同じようなものだ」という認識を持ちやすい。

それが大きな間違いだ。


自閉症スペクトラム指数(AQ)のテストというものがある*3

まあ、はてなにいるような人間はどうせ高い点数が出るだろうが、ぜひ周りの人にもやってみてもらってほしい。

↓みたいな体験ができるかもしれない。

 

 
ぼくは妻にやってもらったことがある。

そうすると、本当に「ありえない」選択肢を迷いなく選んでいく。

ぼくは自閉症に関する本をいろいろ読んでいたので、その裏返しとしての「健常者」という存在についてもだいたいは知っていたつもりだったが、そうして目の前で実演されたときの衝撃はやはり大きかった。

百聞は一見にしかずというやつだ。


ところで、ぼくは元記事の人のように「お前は中二病なだけだ」という心ない言葉をかけられたことはあまりない。

ひとつには、ぼくが見るからに異常だったというのもあるだろうが、もうひとつは「ぼくが知能が高かったから」だと思う(参考に、過去バズった記事にぼくはこうやって(8年前)Googleに入った - アスペ日記がある)。


ぼくのように知能が高いと、ASDだということも比較的受け入れてもらいやすい。

「一部に突出した能力を持つ自閉症者」というイメージが世間にあるから、それにぴったりハマるんだろう。


実際のところ、(何度も何度も言われていることだが)ASDだからといって高い能力を持っているとは限らない。

ぼくの自閉仲間にしても、知能が高い人もいればそうでない人もいる。

だが、ぼくから見ると、高い知能を持った「人間」よりも一般的な知能の「我々」のほうが圧倒的に付き合いやすい。

エミュレータをオフにして、「人間」から見ると非常識とされるような感性を共有して話ができるからだ。


うちの子は3歳の段階でASDの診断を受けている*4

知能が突出して高そうな兆候はないが、時代のおかげで無事に診断を受けて、療育も受けることができている。


例の記事の人は、ぼくのように突出した能力で免罪されてきたわけでもなく、うちの子のように比較的恵まれた時代に生まれてくることもできなかったのかもしれないが、それでも何とか自分の特性と折り合いをつけるところにたどり着いてほしいところだ。

 

 


最後に。

「我々」には「人間」に比べていろいろな欠点もあるが、ひとつの長所として「その場の雰囲気を読んで自然にそれに従う」という特性を持っていないということがある(それは社会適応にあたっては欠点になるのだが)。

元記事の人が寄ってたかって叩かれているもうひとつの理由(ひとつ目は上に書いた)は、「人間」が「こいつは叩いてもいい」という雰囲気を読んだということもあるだろう。

ぼくは、自分がそういう特性を持っていなくて本当によかったと思う。

 

元記事の人がASDじゃなかった場合の想定もしておく。

それで、元記事の人が「遅く来た中二病」だったとして、なぜ中二病が遅く来たのか? それがASDじゃない「他の何かの遅れ」だったとして、それは叩いていいものなのか?

人間はどうも「LGBT」とか「ASD」とかのラベルがないと他者の個別性を尊重できないようだ。

こういうタイトル(「自閉症についての理解を深めてくれ」)にはしたが、それは半分は釣りのようなものだ。

頼むから、かっこいいラベルなしでも、人間は一人一人それぞれ違うということぐらいわかっておいてくれ。

*1:厳密には一色ではないが、大勢として。

*2:ぼくから見て「我々」に属する人でもこういう世界観を持たない人もいる。そういう人は、「物事をざっくり捉える」という、ある意味人間的な能力がぼくよりさらに少ないようだ。逆説的だが、そういう人間的ないい加減さが、「我々」と「人間」という大雑把な認識を助けているように見える。

*3:「何かをするときには、一人でするよりも他の人といっしょにするほうが好きだ」から始まるやつ。

*4:子供の個人情報を書くのはどうなのかという意見もあるかもしれないが、うちの子に将来浅く関わる人間がこの記事を読む確率はほぼゼロだろうし、深く関わる人間にはどうせ知ってもらうことになる情報だ。

ブラウザでマイク入力から字幕を作るツールを作った

Chrome でマイクからの音声を録音して、その音声認識で書き起こしも同時に行うツールをmizchi氏が作ったので、それにちょっと手を加えて、SRT形式の字幕データを作れるようにしました。

https://recording-studio-srt.netlify.com/

で使えます。

動機

私はいまドイツ語を勉強中なのですが、リスニングが弱いので、字幕のない動画に字幕をつけて見たいという気持ちがありました。

それでmizchi氏のツールを使おうとしたのですが、日本語にしか対応しておらず、ソースコードを直接いじろうにもいかにも別の何かから出力された感じだったので、mizchi氏にソースコードをもらって(mizchi氏のソース)、それを改造して言語を選べるようにして、それで動画に重ねて見れるようにSRT形式でダウンロードできるようにしたという流れです。

使い方

左上で言語を選びます。

左下で表示形式(テキスト、テキスト+時間、SRT形式)を選びます。

「recording start」ボタンを押すと録音・音声認識が始まります。

同じボタン(「recording end」というラベルになっている)を押すと終了します。

終了後は音声を再生したり、「Download」リンクからテキストをダウンロードしたりできます。

応用

音声出力をそのまま音声入力として受け取るようにすると、動画の音声認識がやりやすいかと思います。

MacではSoundFlowerというソフトでそれができます。

調べると、WindowsではVirtual Audio Cableというソフトでできるそうです。

以下の記事が参考になるようです。

Macで writer-app + Soundflower を使った完全自動文字起こしを行う方法 - ポップコーン

Windowsで writer-app + VB-Audio Virtual Cableを使った完全自動文字起こしの方法 - ポップコーン


SRT形式の字幕データを動画に重ねるには、動画ファイルが手元にある場合は、動画とSRTファイルの名前を揃えてVNC Playerで再生すれば自動的にやってくれます。

動画ファイルが手元にない場合、SRT形式の字幕データを画面に表示できるソフト(MacならSrtViewerなど)を使えば何とかなります。

解説

技術的に新しいことはやっていません。

mizchi氏の解説ページを参照してください。

ソースコード

修正後のソースコードここです。

React+TypeScriptです。

ライセンスはMITです(mizchi氏に許可をいただきました)。

もっといい感じにできる人がいたら改良してください。

ぼくはこうやって(8年前)Googleに入った

入って1年ちょっとで辞めたぼくだが、流れに乗って書いてみる。


正直なところ、ぼくが書く意味はないと思った。

「どうやって」という話になると「入社試験を受けたら入れた」ということになるし、それはもう他の人が書いているからだ。


しかし、他の人の記事を見ているうちに、これならぼくが書けば違った視点からの記事が書けるんじゃないかと思った。

テーマは「光と影」。


ぼくの生い立ちを少し語る。

両親は京大卒。

父親は大学教授(最終的に)。

母親はぼくが2歳のときに統合失調症を発症、17歳のときに自殺。

子供は姉(2歳年上)とぼくの二人。


母親が統合失調症で病院に出たり入ったりしていたため、ぼくは家で姉と二人になることが多く、壮絶にいじめられた。

自閉的傾向が強かったぼくは、姉からしたら気持ち悪い存在だったんだろう。

その当時(ぼくは1974年生まれ)は自閉症なんて知られていなかった。


ぼくはどこからどう見ても問題児だった。

気に入らないことがあると泣きわめいたり、学校の教室でコンパスを投げたり、塾(日能研)でからかわれて激昂してガラスのドアを足で割ったりしたことを覚えている。


日能研には小5のころから通っていたが、ぼくはろくに勉強していなかった。

一番前の席(成績順だった)でノートに「しかくいち」(囲み文字)を立体的に描いていたら、先生に「お前何のためにここに来ているんだ」と言われたというエピソードがある。


しかし、成績はよかった。

実力テストのたびに全国○位とかになって、賞状と賞品(鉛筆やノート)をもらったりしていた。


中学校は関東の私立の中高一貫校に通った。

定期テストの成績はそれなりだったが、実力テストではだいたい順位が上位5%ぐらいには入っていた。

しかし、一回古文の先生に「こういうやつは高校で失速するんだ」的なことを言われたのがやけに印象に残っている。


高校からは関西に引っ越すことになり、公立校に入った。

入学一発目のテストで偏差値90を取った。

(これは私立中学のカリキュラムが進んでいたというのもあるだろう)


勉強する習慣はつかないままで、古文の先生の予言通り、成績は少しずつ失速していった。

大学受験は、前期は京大理学部、後期は工学部の情報工学科。

前期は落ちたが、後期はセンター(だいぶよかった)の配点が大きかったこともあって、何とか引っかかった。


しかし、京大は1年で中退。

大学に入ってからも勉強するものだとは思っていなかった(それ以前もしていなかったが)ぼくは、理系の大学という当たり前に勉強が求められる環境で一瞬で脱落してしまった。

古文の先生の予言が的中したようなものだが、大学入学後になるとは…。


京大ではろくに授業に出なくなっていたが、語学の授業だけは出ていた。

それで、大阪外大(当時)を受け直すことにした。

成績的に落ちるはずがなかったので、対策なしで(京大のときは対策していたのか?)受けて、受かって、入った。


大阪外大では中国語を専攻*1し、1年が終わってから中国に留学した。

ルームメイトを始め韓国人が多くいたので、中国語以外にも、高校のころちょっと勉強していた韓国語もだいぶうまくなって帰って来た。


外大では、3年の終わりあたりで精神の状態を悪くして1年休学した。

この時期には自殺を考えたこともある。

また、レポートがどうしても書けないという問題があって単位が足りず、1年留年した。

1浪1留(学)1休1留(年)という4年遅れで卒業した。


就職活動はろくにできていなくて、卒業してもしばらくは無職だった。

8月になってやっと、中韓語とプログラミングが生かせる小さな会社があったので、そこに応募して、入れることになった。


プログラミングは中3のころからやっていた。

MSX2というパソコンで、雑誌に載っていたゲームのソースを入力しつつプログラミングに触れ、当時流行っていたテトリスを実装することで身につけた。

アーケード並みの速度にしようとするとマシン語に触れる必要があり、そのことが後々役に立った。

その時期の話はここ


小さな会社では5年ほど勤めて、飽きたので気分転換に辞めることにした。

1年半ほどぶらぶらして、そこから急に思い立って大学院に入ることにした。

会社では自然言語処理っぽいことをしていたが、何の基礎もなかったからだ。


元の小さな会社でアルバイトとして勤務しつつ、受験勉強をした。

特に「オートマトン 言語理論 計算論 I」という本は面白かった。



考えてみると、意識的に勉強したのはこれが初めてだった。

勉強することによってわからなかったことがわかるようになる体験をして感動した。

それまでは、わかること・わからないことというのはあらかじめ決まっているようなイメージだった。


大学院は、京大とNAISTに受かり、京大に行くことにした。


京大では、計算量理論などの授業が面白かった。

勉強する習慣が少しついていたので、アルゴリズムイントロダクションの独習をしたりもした。



同級生(といっても12歳も下だったが)が就活していたので、35歳のぼくも新卒みたいな顔をして就活をしてみた。

といっても、就活力(人間力)がどうしようもなく不足していたので、書類で応募したのが3社で、面接に進めたのが2社だった。

その中の1社がGoogle

全落ちしたら元の会社に出戻る予定だった。


Googleの面接は、コンピューターサイエンスのセンス(≒知能)を問うようなものばかりだった。

ぼくはそれなりに答えられて、それなりに手応えがあった。

といっても、合否ラインは倍率次第だから安心はできなかった。

合格の電話がかかってきたときには、さすがにテンションがかなり上がった。


しかし、入ってわずか一年ちょっとで、適応できずに辞めてしまうことになる。

退職エントリにはかっこいいことも書いたが、それは一面だ。

もう一面は、Googleの「光属性」に耐えられなかったというものだ。


まともな入社エントリを書くようなGoogleの人間は、「自分は頑張ったからGoogleに入れた、みんなも頑張ったらGoogleに入れるよ」的なことを言っていたりする。

気持ち悪い。

ぼくがGoogleに入れたのは、遺伝子のおかげじゃなかったら何なんだ?



Googleに入るような人間がそういう考えになるのもわからないこともない。

知能以外にも能力のバランスの取れている彼らは、だいたい同じような知能の人間に囲まれて育ってきているんだろう。

「(東大の同級生の)みんなも頑張ったらGoogleに入れるよ」と補完したら、特に不自然なことはないのかもしれない。


でも、ぼくはいろいろ問題が多い人間なので、そういう均質なグループには属せない。

だから、ぼくはそういう考え方はできないんだと思う。


まあ、Googleの人間がそういう考え方をしていても別にいいんだけど、ぼくはそういう光の領域にはいられない。

その領域では、人間はみんな平等に生まれて、頑張った人が報われるもので、頑張れてる自分たちが他の人も頑張れるように助けてあげよう、という感じなんだろう。


ぼくは生まれながらにして影の領域の住人だ。

そこでは、人間は自閉症だったり、双極性障害だったり、統合失調症だったりする。

脳内伝達物質の不調で過眠や過食だったり、自傷行為や自殺未遂をしたり、引きこもったりする。

精神科に行っても、いい薬がなかったり、効くと思った薬が副作用のせいで続けられなかったりする。

そういう領域にいると、光の領域の住人が「頑張れば○○できるよ」とお気軽に言っているのを聞いても、ケッとしか思えない。


努力を否定するわけではない。

例えば、自転車に乗りたいと思っている人が頑張って自転車に乗れるようになるといったことは、とてもいいことだと思う。

これは、「できなかったことができるようになる」という意味でのいいことだ。


しかし、もう一段階メタに考えると、もっといいのは「『できなかったことができるようになる』ことができるようになる」ということだ。

日常的に、「自分にはできないと思っていたことにトライして成功する」ということができるようになるということ。

そのためには、ちょっとした成功体験を積み重ねるのがいい。

そうしようと思うと、「自分には何があとちょっとで手が届きそうか」ということを見極める力が必要だ。


そういうときに、「みんなも頑張ったらGoogleに入れるよ」みたいなのはノイズでしかない。

高知能人間を集めようとあらゆる手を尽くしているくせに、よく臆面もなくそんなことが言えるなと思う。

数から言っても、東大(1年に3000人も入る)よりもずっと狭き門だ。

もっとも、できるだけ多くの高知能人間を集めるためには、誰にも諦めさせないで取り漏らしをなくすというのが合理的なのだろうが。


ポジティブでいるためには「人間は誰でも何にでもなれる」という嘘を信じる必要があるのか?

ぼくはそうは思わない。



ぼくは、一部のGooglerのような底抜けのポジティブさは持てない。

それどころか、生きるのがつらくて、死にたいとしょっちゅう思っている。

それでも、生きている間は、少しでもできることを増やしたり、また他の人ができることを増やすのを手伝ったりしたい。

そういう意味ではポジティブでありたい。


最後に、ぼくの好きな「シーラという子」という本から引用する。

夕方のニュースをつけて、どこか遠くで起こった目新しい派手な出来事を聞いている間に、私たちは自分たちの間で演じられている実にリアルなドラマを見逃してしまっている。どんな外の出来事よりもすばらしい勇気あることがすぐそばで行なわれているというのに、残念なことだ。子供たちの中には、ひとつひとつの動作をするたびに、いわれのない恐怖に襲われるという悪夢で頭がいっぱいの子供がいる。…それでも彼らはなんとかがんばっている。ほとんどの場合、他にどうすることもできずにそういう状況を受け入れている。


*1:これは「専攻語」で、学科は国際文化学科とかいうやつだったが。

表現規制についての思考実験

あなたは「表現の自由はすべてに優先される、ゾーニングは必要ない」という考えの持ち主だろうか。

そうであれば、「2 Girls 1 Cup」というビデオを検索して、それを最後まで見てほしい。

(閲覧注意の動画なので、信念のある人以外にはお勧めしない)


「2 Girls 1 Cup」というのは、有名なスカトロ動画だ。

我々は普段、そのような動画を目にする機会がない。

なぜだろうか?

それは何よりも、そのような動画を好きな人間が圧倒的少数であるということによる。


ここで思考実験をしてみよう。


ある日突然、人類が変なウィルスに冒されて——あるいは宇宙人に脳を改造されて——理由は何でもいいが、人類の半数がどうしようもないスカトロ好きになってしまったとする。

そうするとどうなるか。

メディアには大量にスカトロ動画があふれ出す。

ウンコを恍惚の表情で食べている表紙の雑誌が店頭に並び出す。

半数というのは大きなマーケットなので、そうなることは目に見えている。


しかし、この状況は「旧人」にとってはたまったものではない。

すぐにゾーニングを求める意見が噴出するだろう。

しばらくして法律が整えられ、スカトロ物はゾーニングされたエリアでしか買えないようになる。

アニメにはなぜかカレーを食べるシーンがやたらと増えたような気がするし、その理由もだいたい皆察しているが、まあその程度はしょうがない。


また別の思考実験。


ある日突然、(略)人類の半数がサメにどうしようもない恐怖を感じるようになってしまったとする。

サメの画像を見るだけでPTSDのような症状が現れる。

もちろん、ジョーズのパッケージなんて論外だ。


そういうわけで、今や世界の半数を占める「新人」たちの力で、サメ物のゾーニングが進められる。

サメ映画を見ようと思うと、「この先には敏感なコンテンツがあります」という画面を通らないといけない。

旧人」はぶつぶつ言いながらもその状況を受け入れる。


さて、これらの思考実験で、「新人」がそれぞれ一人だったらどうだろうか。

スカトロ好きの一人と、サメにトラウマのある一人。

前者は自分の愛するコンテンツを公共の場で発表したら袋叩きに遭うし、後者はサメの画像が目に入らないようにビクビクしながら生きるしかない。

現状のゾーニングが揺らぐことはない。


ここで言いたいのは、「数は重要だ」ということ。

ゾーニング——というより表現規制一般——は、常に多数派(過半数という意味ではなく、ある程度以上の発言権を持つ集団)同士の調整のためのものであったし、今後もそうであり続けるだろう。

それは善悪や理念というよりも、力学のようなものだ。


表現規制の話になると、宗教的に自分の考えの正しさを信じる人間がわらわら出てくるが、そもそもそんな絶対の正義などは存在しない。

完全に表現規制の廃絶を主張できるのは、「2 Girls 1 Cup」の動画を見ながらカレーを食べられる人間ぐらいだろう。

結局のところ、「スカトロ動画を昼間放送して何が悪いんだ」「サメ映画なんて怖いものをよく公共の場に置いておけるな」的に、自分の快不快を(必要に応じて仲間と連帯しながら)訴えていって、力関係で勝った集団が好きなものを公共に流し、力関係で負けた集団が公共の場で不快なものを目にするという、それだけのことだ。

もちろん、現状だってそうなっているから、テレビにスカトロや性交シーンが出てきたりはしない。

多数派のための表現規制のおかげだ。


表現規制の基準は、これまでにも大きく変わっている。

感性は変わるものだからだ。


例えば、昔「チャタレー事件」で「チャタレイ夫人の恋人」が猥褻だと認定されたのは、当時の多数派にとってそれが猥褻だったからだろう。

昔の人間が愚かだったからではない。


ここでまた思考実験をして、未来では恋愛ドラマでは無修正の性交シーンがテレビに出てくるとしよう。

現代人が未来人に「どうしてあなたの時代の恋愛ドラマには性交シーンが出てこないのですか? あなたの時代にも恋人たちは性交をしていたでしょう」と聞かれたら何と答えるのがいいだろうか。

答えは、「我々の時代の人にとってそれは刺激的すぎるから」となるだろう。

「我々は未来のあなたたちより愚かだから」ではないし、ましてや「我々にとっては表現の自由は重要ではないから」ではない。


ところで、ゾーニングというのは「たかが技術的な問題」でもある。

例えば、人間がすべてARメガネなりARコンタクトなりをつけて生活していて、「性レベル*1」のフィルタを設定することによって、設定したレベル以上の性コンテンツは目に入らないようにできるとしたら、各人が自主的にゾーニングできることになる。

このゾーニングに反対する人はあまりいないだろう。


結局のところ、ゾーニング表現規制というのは、それぞれ違った感性を持った人間たちが、この基底現実という世界を共有していることから起こる問題だということだ。

もちろん、人類が基底現実を離れられたら問題は自動的に解決するのだが、それまでの短い間は何とかすり合わせをしながら生きるしかない。

感性が違う以上は闘争になることは避けられないとはいえ、最低限、「自分と違う感性を持った人がいる」ということを頭に入れながら、泥臭く妥協点を探していくしかないんじゃないだろうか。


いま多数派の人だって、いつ少数派になるかわからない。

最初の思考実験では、人類の「半分」がスカトロ好きになるという設定だったが、これが「99%」で、あなたが1%の旧人だったら、あなたはどうするだろうか。

たとえ自分が少数派でも、スカトロコンテンツを見ないで生きる権利を求めて必死で戦うんじゃないだろうか?

まあ、それは1%でも仲間がいればの話だが。

もしスカトロ好きになったのがあなた以外の人類全員だったとしたら、どうだろうか。

そういうことを想像しながらゾーニング表現規制について考えるのも悪くないと思う。


ぼくは「2 Girls 1 Cup」の動画を見ながらカレーを食べられる*2タイプの人間なのだが、岡目八目ということもあるので、この問題について半分部外者*3の立場から書いてみた。

ちなみに、この動画を知ったのは「反共感論」という本に出てきたから。

おすすめ。

*1:性レベルは何らかの手段でユーザーからのフィードバックを得るとする。

*2:一応やってみた。

*3:見たくないものを見せられることはないが、見たいものが堂々と見られなくなることはあるので、完全に部外者ではない。

ドヌーヴ「女性を口説く権利」誤訳指摘

(2018/01/12 15:44 追記)「カトリーヌ・ドヌーヴを含め100人の女性が主張したこと」というよりよい翻訳が出ていて、そちらにはここで指摘したような問題はありません。そちらを読むことをお勧めします。




ドヌーヴ「女性を口説く権利」 全訳ですが、ブコメにもあるように誤訳があり、中には大きなものもあるので、限られたフランス語力ではありますが、指摘しておきます。指摘に間違いがあれば再指摘をお願いします。



性暴力は重大犯罪だ。(Le viol est un crime.)

"viol"は「レイプ」です。

ナンパはしつこかったり不器用だったりしても犯罪ではないが、そのことがマッチョの侵害行為を保証することにはならない。(Mais la drague insistante ou maladroite n’est pas un délit, ni la galanterie une agression machiste)

まず、"galanterie"を"garantie"(保証)と間違えていますね。"galanterie"は日本語に訳すのが難しい単語ですが、「男性の女性に対する親切(往々にして下心あり)」的なものです。また、後半は"est"が省略されています。直訳すると、「しつこい/不器用なナンパは犯罪ではなく、女性への親切もマッチョの攻撃ではない」です。

いわゆる普遍の名の下で (au nom d’un prétendu bien général)

"général"は"prétendubien"を修飾しています。「…という一般的な建前でいわゆる公益の名のもとに」という感じでいいんじゃないでしょうか。*1

「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが…

この段落は構文が取れていませんね。原文を残しつつ訳し直すと、次のようになります。

「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けするには程遠かった。 実際には、これで得するのは、性の自由の敵、宗教的過激主義者、最悪の反動主義者、また本質的な善という概念とヴィクトリア朝のモラルという名の下に、女性は「別扱い」の存在で、保護してくれと要求する大人の顔をした子供であると考える人たちだ。

スイスで提出されている法案 (un projet de loi en Suède)

ブコメで指摘がありますが、「スウェーデン」です。

さらにご苦労なことがある。二人の成人が一緒に寝たいと思ったら、携帯のアプリを使って、あらかじめ正式なリストのチェック欄を見て、やりりたいこととやりたくないことに印をつけなければならないというのだ!(Encore un effort et deux adultes qui auront envie de coucher ensemble devront au préalable cocher via une « appli » de leur téléphone un document dans lequel les pratiques qu’ils acceptent et celles qu’ils refusent seront dûment listées)

これは致命的なミスです。"Encore un effort et ..."というのは、「この調子でいけばあとちょっとで」という意味です。「この調子でいけば、…ということになるだろう」ということで、法案がそうだというわけではありません。

トラウマを植え付けられたと感じる必要はない(原文略)

"à jamais"(永遠に)が落ちています。

評判だおれ (non-événement)

よくわからない訳語の選択です。「たいしたことのないこと」あたりでいいでしょう。

力の乱用を超えて (au-delà de la dénonciation des abus de pouvoir)

"dénonciation"(糾弾)が抜けています。「力の乱用に対する糾弾を超えて」です。

たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性は尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。(Les accidents qui peuvent toucher le corps d’une femme n’atteignent pas nécessairement sa dignité et ne doivent pas, si durs soient-ils parfois, nécessairement faire d’elle une victime perpétuelle.)

全体的にちょっとよくないので訳し直します。

女性が事故によって体を傷つけられたとしても、それは必ずしも尊厳を傷つけられたことを意味せず、またそれらの事故は時にはとてもつらいものであるが、それでも事故に遭った女性を永遠の被害者にするようなことがあってはならない。




誤訳指摘はここまでです。とても読みにくいと思うので、本文に反映してもらえたらと思うのですが、それは元の書き手次第ですね。


ここから少し、なぜこの誤訳指摘をしたかについて書きたいと思います。興味のある方だけどうぞ。


ネット上での出来事に詳しい人なら覚えているかもしれませんが、私はこれまで、「善意のひどい訳について」、「腐った翻訳に対する態度について」といった記事で、ひどい翻訳を糾弾してきました(後者の件では、結局非公式PDF版SICP・新訳として自分で訳し直しています)。

これで人を萎縮させるつもりはなかったのですが、残念ながらそのように受け取られたかもしれません。この前、TLで次のようなツイートを見ました。




「誤訳のある翻訳をするとすごい叩かれる」という恐れができているとしたら、それは残念なことです。

では、なぜ上記の記事では翻訳を徹底的に糾弾したのか。

それは、それらの翻訳が本当に、例外的にひどかったからです。

構文という概念がなく、拾った単語を適当にくっつけているとしか思えない、翻訳と称する何か。

どうしてこんなことになったんだ? という思いから、また「この翻訳を信用してはいけない」という警告の意味も込めて、そのような強い言い方になりました。


今回の翻訳は、まあ普通レベルです。

すべてを一から翻訳し直さなければいけないほどの惨憺たる翻訳というわけではなく、この翻訳のおかげで大意が取れて助かっている人もいるでしょう。

訳した人はそれなりにフランス語ができる人で、自分でもレベルを把握しているのではないでしょうか。

そういう人に強い言葉を使う必要はありません。


本来、こちらのほうが当たり前です。

全体としてそれなりの訳文の中にいくつかの間違いがあれば、それを指摘して、それでおしまいです。

私はそういうこともしています。

ただ、そういうのは目立たないので、人目に触れるのはどうしても「マサカリ」だけになってしまいます。

それによって「翻訳を出すとボコボコにされる」というイメージがつくのは残念なので、今回は「普通の誤訳指摘」を公開でしてみました。

(もちろん、誤訳を直すことで役に立てればという気持ちもあり、ついでにアフィでも貼ろうとかいう気持ちもあります)


また、結果的にマサカリを投げることになった相手も、必ずしもずっとそうであるとは限りません。

善意のひどい訳について」でマサカリを投げた相手のid:ymotongpooさんは、その後「Go 2にむけて」という翻訳記事を出しています。

やはり構文を取るのが弱いところはあるのですが、それでも全体としてはそれなりに訳せていました。間違っているところは、修正のプルリクエストを二回(#2#8)出して、取り入れてもらいました。


そういうわけで、翻訳を出しても「よっぽど」でなければ(少なくとも私に)叩かれることはないこと、また仮に「よっぽど」な翻訳を出してしまったとしても、投げられるマサカリは人に対するものではなく訳文に対するものなので、それを糧にしてほしいということ、というのが言いたかったことです。また、自分の翻訳が「よっぽど」かどうかに自信がなければ周囲の人に見てもらうというのもいいと思いますし、何なら私もお手伝いします。

どんどん翻訳していきましょう。


最後に、フランス語のおすすめ教材を貼ります。


フランス語リアルフレーズBOOK」は、砕けた言い方が多く収録されていて、表現の幅が広がります。


現地収録! フランス語でめぐるPARIS」は、フランスでの日常会話をそのまま収録したような本で、リスニングの練習にいいでしょう。

*1:ブコメで指摘があり修正しました。ありがとうございます。

iOSの謎の単語と、それにまつわるデマ

(2018/01/15 追記) いつの間にか削除されていたようです。iOS 11.2.2で候補から消えていることを確認しました。

iOSで「レイプ」と入力しようとすると、変な候補が出てきます。



レイプアールサァン

いったいこれは何でしょうか。


「レイプアールサァン」でGoogle検索をすると、知恵袋が見つかり、その中で次のような回答がされています。

一つの可能性としては、変換辞書の盗用防止があります。

もし「レイプアールサァン」が変換できたら、それはiOSの辞書の盗用だということになります。


なるほど、それっぽいですね…。

それが完全なデマだということを除けばね!


では、この「レイプアールサァン」とは何なのか?

キーとなる人物は、ツイッターの「たいぷあーる」(@HONDA_TYPER)氏です。



今でもバリバリ活動している人なので、こうやって取り上げるのは気が進まないのですが、デマがとめどなく繁殖してしまうのを見かねたので記事にしました。


まず、このたいぷあーる氏ですが、友人には「タイプアールサァン」と呼ばれていました。



名前から考えて不思議ではありませんね。


で、この人は「レイプアールサァン」とも呼ばれています*1



レイプにまつわる何かの内輪ネタがあったんでしょう*2

これらのツイートは2011年のもので、時期的に、iOSの辞書の話題が出るよりはるかに先のことです。

また、元の名前という文脈もあるので、こちらが先であることは確実でしょう。


それにしても、こんなあだ名がなぜiOSの辞書に拾われたのでしょうか。

次のツイートがヒントになるかと思います。



これ、Foursquareですよね。

悪ノリして、自分の住所を「レイプアールサァン」として登録したんだと思います。

これは、iOSの辞書を作る際にクローラが拾ってしまっても無理はないですね。

もちろん、いろいろフィルタリングに力を入れているとは思いますが、数百万もある辞書エントリのうちのひとつなので、チェックが漏れてしまったんだと思います。


ちなみに、本人の反応はこちらです。



さて、この記事を書くに至った経緯ですが。


眞踏珈琲店公式」という、フォロワー2万超えの有名アカウントが次のようなツイートをしたことによります。



この「レイプアールサァン」、「レイプ」が性的な用語ということで下に追いやられて、結果として上のほうに出てくることが多いんですよね。

このアカウントも、検索の結果、上記の知恵袋にたどり着いていました。



もちろん、これはデマです。

それで、私が調べたことを簡単に伝えました。



すると、次のような反応でした。



という説」というところが気になりました。

こちらには鉄壁の証拠があるのに、諸説のひとつ扱いになってしまう。


iOSの日本語入力辞書の1エントリの問題とはいえ、デマが堂々と通用している現状に歯がゆさを覚えたので、こうして記事として記録に残しておくことにしたというわけです。

デマと言っても、該当知恵袋を書いた人は「一つの可能性」と明言しています。

それが引用されるうちに「説」としての信用性を獲得していく…。

多くのデマは、こういう過程を経て広がっていくんでしょうね。

*1:ところで、「レイプアールサァン」のほうが時期が先ですね。実際にこちらのほうが先なのかもしれませんし、「タイプアールサァン」と言い始めた人のアカウントが消えているとかかもしれません。

*2:もちろん、レイプをしたわけではないとは思います。